国語教育いろいろ

高校、大学の現場での議論のいろいろです

檻の中の街 模範解答を用意すべきか

「檻の中の街」の模擬授業を見て


この国で生活していると
「難民」は遠い存在です。
教科書の編集意図としては、
「写真と文章の情報伝達の違い」という情報処理ベースの課題とは別に
遠い存在をありありと理解する、しようとする態度や想像力にも焦点が当てられています。

ーー

遠い存在を理解するためには、
一定の前提知識が必要になります。
「社会科」みたいにならないか、というためらいも議論されましたが、
国語として文章理解のために必要な知識、情報は、レクチャーする必要があるでしょう。
高校生は、シリア内戦の経緯など、ほとんど知らないです。生徒自身に検索させて、最低限の要点を整理して共有する手もあります。

教材理解のため、なので、本文に登場する女性や少年(また、写真に写っている人たち)といった個々の人たちが、どういう経緯でここにいるのか、に焦点化すべきでしょう。

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⭕模範解答を用意すべきか、の問題。

用意すべきだ、が答えです。
ただし、もちろん、それを板書して終わりというものではない。
模範、というか、授業者がとにかく精一杯考えて書いた、
その理由も含めて説明できるような「解答」を用意しておく、ということです。

じつはこれ自体が「教材研究」です。

授業者が、自分が身体化している言葉で言い尽くそうと努めること。
その困難を味わうこと。
さらに生まれる問いを掬いとること。
おそらくその中で
生徒から出てくる答えも想定できるようになるはずです。
答えの可能性ーバリエーションのマップみたいなものができてくる。
それがあると、
生徒からの意見をマップ内に配置するように受け止めることができます。

「檻」には、
空間的意味もあるし、
心理的意味もある。
「檻」を「不自由/自由」の対比として言語化する子もいるだろう。
「檻」をその「内/外」という観点から捉える子もいるだろう。
「檻」を挟んで「見られるもの/見るもの」の非対称な関係を言う子もあるだろう。

「模範」を作ろうとする中で、
いろんな言語化の可能性を用意しておくことが
授業者には必要なのです。

ーー

さらに、
今日も話題になったように
その日その時間その場の中で新たにきづかされることがある。

ここが国語の最もおもしろいところです。
先生も一人の参加者となって楽しむ、学ぶ。

先生がじゅうぶんに「模範解答」を耕しておくと、
生徒の中から新たな芽が出てくるのを助けることができます。
生徒に「さら問い」する中で
その「芽」の新鮮さに気づき、
称揚する。

教室が「ほんまやなあ!」ってなるとき、
先生も「ほんまやなあ!」ってなる。

その場での、豊かな「模範解答」ができるはずです。
それを
今日試みていたように
本文とともにまとめていく。

それは生徒たちと作り上げたノートになります。

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人間は移動する動物であり、
近代が人権と呼ぶものの根幹には
移動の自由があるでしょう。
コロナのときにはそれがなくなりました。

今日の教材を読んで、
難民、被災者、ガザ地区の人たち、
という移動できない存在のことが
切実に思われてしまいました。

一方、ジャーナリストには移動の自由があるーーほんとうに? そうも感じました。
移動の自由はせいぜい「国内」に限られる。
国家の許可なしに、国外への移動はできないことを改めて思います。
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20240125/k10014334751000.html

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とっとと帰れ!という叫びを
言葉の通じる人に向けたということの裏には、
そう叫びたくなる現実を理解してもらえる細い回路を、彼女はそこに感じていたのかとも思います。

私たちはつながる可能性のない人には
言葉をぶつけたりしないのではないか。

そんな感想を持ちました。