国語教育いろいろ

高校、大学の現場での議論のいろいろです

図式化ということ

文章を図式化できる力は、

現在、特に必要になってきている力だと思います。

 

例えば、パワポ

いまや、文章を図式化するというより、

パワポ化」→「発表」→最後に、「文章化」

といった過程をよく見ます。

 

(生徒の研究発表なんかはそうです。

発表に向けて、とにかくスライドを作る。

あとから論文に)

 

文章→図式化

という過程は、

文章を読みながら

「サブノートを作る」とか、

先生の「板書」とか

「テスト問題を解くときのスキル」

といったところにも見られますね。

 

教科書会社が作る「指導書」にも

必ず何らかの「図式化」がつくようになっています。

 

 

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「図式化するとわかりやすい」

とよくいわれますが、

私は、

「図式化」の利点は、

文章を「わかりやすく伝えられる」ものにする

という所には〈ない〉のでは?

と思っています。

 

参考に、

ある教科書の指導書から、

「コインは円形か」の「図式化」を示しますが、

これはわかりやすいか?

 

また、

行政はしばしば、

「図式化」された資料を作ります。

(業界用語で「ポンチ絵」というそうです)

府立学校にいると、

教育委員会の作った「ポンチ絵」をよく見せられます。

 

しかし、

結局、

「それだけ見てもよくわからない」。

 

図式はあくまで、

ことばとセットになって理解を助けるものなのだと思います。

 

ことばは、

圧倒的に精緻にすじみちを提示できます。

また、

そのすじみちは「線状」に進むので、

虚心に追跡していけばいい。

 

しかし、

二次元的に展開する図式は、

見る人の視線がウロウロする。

だから、

スライドでも指示棒で視線の位置を

「指示」しなければならないわけです。

そうしないと、

私たちは図式を恣意的に見てしまう。

 

また、

図式化で使われる

→や=といった記号には、

数式のような厳密な定義はありません。

ここにも恣意性が入り込みます。

 

「図式化」は、

文章を「わかりやすく伝える」というわけではない。

 

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しかし、

国語の活動として、

「図式化」に意味がないということはありません。

 

文章をなんとか「図式化」しようとする努力は、

・構成の読み解き

・概念の定義

・主張と根拠の関連性

・因果・対比・類似関係

といったことへの理解を要求します。

 

自分なりの「図式化」を試みる努力の中で、

「あ、冒頭と同じ主張を末尾でも繰り返してるんだ」

「あ、冒頭の前提が、この根拠によって、否定されているんだ」

「あ、この結果に至る、いくつかの要因が羅列されているんだ」

なんていうことが、

「見えて」くる。

 

「図式化」は文章の理解のための過程として活用できる。

これが言語活動としての「図式化」の意義です。

 

「図式化」ができれば、

要約も可能になります。

 

「図式化」も要約も、

元の文章の何かをカットしてしまうことになるわけですが、

それは、

それを無視する、理解しない、ということではなく、

むしろ、格闘する過程で、

「図式化」されなかったニュアンスをも

よりよく捉えられるようになるのではないでしょうか。

 

さらには、

自発的な問いが湧くかもしれない。

 

格闘させる手段としての「図式化」

 

これを覚えておいてほしいな、

と思います。

 

それほど、

「図式化」というのは、

難題なのです。

 

 

授業を整えたいなら、

苦手な生徒にも取り組ませたいなら、

・範囲を限定し、

・使う記号を限定し、そこでの定義を決めておき、

・一部サンプルを見せる。

といった、

段階的に進める工夫が必要だと思います。

 

これは、

要約指導でも同じです。

 

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先生が(全面的に)

板書(図式化)してしまい、

〈説明〉してしまう授業。

これはダメです。

 

それは、

生徒の〈言葉の神経を伸ばすための格闘の場〉を奪ってるし、

先生の〈恣意的な〉解釈を押しつけることになっているからです。

 

「図式化」には恣意性が入り込むことも覚えておいてくださいね。

 

 

 

そういう意味で、

昨日、みなさんが、

ああだ、こうだ、と

図式化を試みた、あの授業は、

図式化の本義を捉えた授業だったと言えるでしょう。