あの人に会いたい(NHK) 大村はま
https://www2.nhk.or.jp/archives/articles/?id=D0009250097_00000
戦後の話し言葉教育(音声) 大村はまの講演 3分
https://www.youtube.com/watch?v=9cGRXFWMB_0
あの人に会いたい(NHK) 大村はま
https://www2.nhk.or.jp/archives/articles/?id=D0009250097_00000
戦後の話し言葉教育(音声) 大村はまの講演 3分
https://www.youtube.com/watch?v=9cGRXFWMB_0
●(具体的には何?)学習指導要領を読んで、いくつか疑問点が出てきました↓
・『必要な資質を備えた』というのは何を基準に備えることができたというのか
・『社会生活に必要な国語』とは具体的に何か
・この指導要領は普通の生徒に対する規定であり、特別対応を受けている生徒などに対してはどう規定するのか
これからもっと細かく分析して、理解していきたいと思いました。
時代によって国語の目標が変わっているのは興味深かったです。時代背景が反映して決まっていると説明を受けて、とても納得しました。
▼前文とか総論では、具体的に何が必要なのか、という点については、触れませんね。人格者の完成についても、どうなるのが完成なのか、示されてはいません。どんな人にとって?、どんな領域について?といった点については、各論で示されます。例えば、各教科のレベルなどで。しかしこれもまた、さまざまな現場の実態によって内容は異なってきます。具体的には、異なって見えるんだけれども、その背景になる考え方、時代の問題はこれだ、という点を総論は示すのです。「みんなが協力するために」文化祭をする。具体的にはいろいろ、というのと似てます。
●(実際には……?)今回の授業を通して、私たちの班は「社会的変化を乗り越え、」のあたりに注目し、社会変化が激しい時代の中、答えのない問題について1人ではなくみんなで考えていかなければいけないと話し合った。そこにつながって、「主体的・対話的で深い学び」がキーワードとしてよく使われており、国語での読書活動や情報活用能力の育成も教員として行っていかなければならないとわかった。学習指導要領には、裏を返せば現在できていないこと、以前はできていたができなくなったこと、が書かれていることに気付かされ、社会の変化に応じて学校教育に求められる役割も変化しているのだと感じた。
一方で、「主体的・対話的で深い学び」を実現することの重要性は理解できるが、実際の学校現場で限られた授業時間や学力差のある子どもたちの中で、どのように全員に深い学びを保障するのか、本当に全員にできるのか、という点が疑問であり、不安でもある。
▼たしかにね。ただ、そういう柱を立てておくことが、現場で具体的な構想を立てるときに役立つのです。子どもに違いがある点についての問題意識も前面に出てきていて、個別最適化、といった用語がよく使われるようになっています。一人一人に対応する視点を、という課題が言語化されているわけです。しかし、それらをたんなるお題目にしていても、今日の授業も明日の授業もできません。私たちの課題は、それらはごもっともだが、では、どう実装するのか、という点にあります。それを考えることの方がじつはおもしろいのです。
●(問いは生まれ続ける)昔の学習指導要領を見て、その時代の背景が大きく影響されていることに気づき、その時代で何を特に子ども達に培って欲しいかが現れていて、時代によって強調部分が違うことに気がついた。学習指導要領に書いてあることは現実ではそうではない事実があるからということを初めて知った。今の時代の背景として、社会で大きな問題が沢山ある中、子ども達には他人事として考えず、当事者として考えて欲しい、対話というルーツを使い、みんなで解決していって欲しいという願いもあるのではないかと気がついた。それぞれの班での発表を聞いて人によって視点も考え方も違うため、対話を通して気づいたり、新たな考え方や疑問が生まれ続けることに気がついた。
▼敗戦後、何の権威もなくなり、システムも崩壊したとき、私たちの先輩は話し合って考えていくしかなかった。アメリカという支配者はいたれけど、支配命令する一方で、デモクラシーによって、日本人どうしで対話しなさい、考えなさい、といいました。憲法もそうです。
そして今、私たちはもう一度、これまでのシステムではうまくいかなくなっている今の時点で、対話の力を次世代に期待しているわけです。よりよく、の内実そのものを、私たちは探り求めていかなければならないのです。今の問題って何? よりよくするってどうすること? 問い続けることが生きていくことなんですね。
●(変わること変わらないこと)学習指導要領を読むと難しい言葉が多く理解することが難しかった。学習指導要領の目標になっていることは、できていない実態があるからという裏があることを学べた。学校で先生が主体的に動きましょうと言っていた意味に気づくことができた。学習指導要領が変わると授業内容もガラッと変わる気がするので目標に沿った授業を考えるのはとても大変だと思った。
▼力点が変わりますが、一方、変わらない部分もあります。基本的にことばの学びに、そんなに大きな変化がおきることはありません。ただ、言語活動を重視すること、とか、話し合いを取り入れて、とか、反省を踏まえて、目標の柱を立てることによって、少しずつ変化していくことを期待するのです。新しく言われることも、じつは、たいてい、心ある実践家がすでにやっていることなのです。そういう意味では、温故知新の面が大いにあります。
●(主体性って何だ?)学習指導要領を読み取ってみて、「社会」や「主体性」という言葉が多く使われていることに気付くことができました。学校の通知表にも「主体的に取り組む態度」という項目があり、「主体性」という言葉には聞き馴染みがあったけれど、その言葉が目指す目標のようなものは考えたことがなかったので、今回そのことについて考えることができてよかったです。自身が生徒のときから「主体性、主体的」といった言葉はずっと聞いてきていたけれど、その目的は言われなかったので、当時言われていたら少しその言葉への印象も変化していたのではないかと思いました。学習指導要領は本来教師が読むものだとは思うけれど、一部簡潔に生徒に伝えることで生徒の考え、行動も変わるのではないかと感じました。
▼ほんとうにそうですね。現場の先生が、主体的とはどういうことなのか、しっかり議論して把握し、かつ、生徒にも伝えておかないと、いきなり通知表に出てきても生徒は戸惑います。通知表という制度を採用すると、こういった学習指導要領に基づく項目がまずあって、あとから、さてこれは何をどう評価したらいいのか、ということになりがちです。主体的といった、いろんな意味あいを広く吸収してしまうことばは要注意。現場の実態に合わせて、具体的に設定しておかないといけません。
例えば、すぐ、なんでもAIに頼る子どもは主体的か? AIを、その特質も理解した上で、新しい事態を解決していくための手段としての一つとして使うような場合と、提出、発表が迫り、AIでお茶を濁そうとする場合では、違う。教室での活動への向き合い方が、どうであるなら、主体的なのか、国語教室ではそのことそのものを話題にして、学びに組み込むことが必要だと思います。「主体」、評論文にもよく出てくることばだしね。
●(深掘りと共有)学習指導要領は何度読んでもややこしいというか回りくどいと感じます。しかし、細かく複雑に書かれているからこそそれぞれ理解が違って、対話によって深めていけるのだと思いました。また、文章量が多いのに「よりよい」が多用され、抽象的な表現があることも議題になりました。一見固い文章でも、気になる部分について深掘りして考えてみたり、それを共有したりすることでおもしろく読めると感じました。
▼硬い文章を一人で黙々と読むというのはなかなか大変ですね。しかし、学習指導要領は教職をとっていれば必ず目を向けなければならない文章です。解説を聞くだけでは、あまりよくわかった感じにはならないでしょう。部分的にでも、みんなでああだこうだ言いながら、読んでみることで、今はすっきり全部わからないかもしれませんが、実際に授業をしたり現場に行ってみたりすると、あー、あれはこういうことを言おうとしていたんだな、と心に残っていた何かが結びつくことがあるだろうと思います。ああいう文章の読みもまた、実践的でなければいけないのです。
憲法のようなテキストだって国語教室で扱うことは可能です。みなさんのコメントにもあった「裏を読む」という見方を取り入れると、憲法の条文の裏にある生々しい現実が見えてきます。憲法にこんな条文があります。ちょっと怖いけど見てね。「第三十六条 公務員による拷問及び残虐な刑罰は、絶対にこれを禁ずる。」「絶対に」と入ってますね。この背景には、かつて、警察などによる拷問が頻繁に行われていた事実があります。「絶対に」と書かなければならなかったのはどうしてなんだろう。みんなで考えたり、調べたりすることで、そのことばに潜んでいる現実を知ることができます。また、現在も死刑制度は続いていますが、その方法はこの条文に違反しないのか、という議論が現在進行形の問題として存在します。社会科の学びとも結びつけられますね。
●(具体性が薄いわけ)学習指導要領の一部を読んでみて最初は具体的な表現が少ないと感じ、教育の基準が明確に示されていないのはあまり良くないことなのではないかと考えたが、授業を聞いて具体的に書かれていないことによって変化する社会に応じて解釈も変えることができるようになっていると気づけた。また、明言しないことによって各教育機関での教育方法の多様性も生まれているのではないかと考えた。
▼総論での表現は抽象的になってしまいますね。各教科についての言葉はもう少し具体的ですが。具体性と言うことを突き詰めると、例えば心情を理解する力を養うには、こんなテキストを使ってこんな活動をしなさいと学習指導要領に書くことになる。それでもいいのかもしれませんが、そうするといろんな現場の実態があるのに、みんなそれでやらなければならないのか、ということになってしまいます。だから、ある程度集約した用語で表現し、方向性や基本的な枠組みとしてはこういう風にやっていきましょう、という書き方になるのです。
逆に言うと、実践的な具体化は、各現場、すなわち先生、すなわち皆さん(!)に任されているということになります。
●(強調するための用語)「社会」「主体性」という言葉が多く出ていたが、裏を考えるという思考が全くなかったので、社会性とか主体性が大人になるために必要だから書かれているのかなと思っていたけど、そうではなくて今の日本で必要な能力だから、こういう言葉をあえて書いていると知った時は驚きました。私は「人格の形成」や「よりよい」など、抽象的に書いているのに対して最初疑問を持ちましたが、そこではあえてそう書いていて、その時代で何が尊重されるかによって目標が変わるからこういう書き方をしてると教わってなるほどと思いました。
▼社会性や主体性は確かに大人になるためには必要です。それは一般的に言えることです。ただし、学習指導要領は、必要であるにもかかわらず、満たされていない点として、そういう言葉をキーワードとして強調しているわけです。以前あまり使っていなかったのに、今回頻出する、といった用語はその時代の強調ポイントになります。
●(他者――対話)前文を読んで、各教科全体に共通することは、よりよい社会のために他者を尊重し、他者と協働することとあった。尊重し、協働するときには対話が必然的に生まれると思う。逆に言えば、前回の授業で出ていた、対話をするには他者の尊重や他者との協働が必要不可欠だということだ。そのための言語活動を、国語を通じて行えるようにするということが国語をする意味なのだと思う。また全体を通して曖昧な表現が多いと感じた。具体的な表現にしてしまうと、達成できた、できなかったが明らかになり、達成できなかった場合に費やした時間に意味がなかったことになってしまうからではないかと考えた。
▼よりよいことばが、よりよい自分をつくる。この方向で考えるのが、子どもの地点からの発想です。一方、学習指導要領のような公的言説は、何が問題か、という意識から出発し、今は社会がヤバい、なんとかするために……という方向でストーリーを描いているわけです。語り方が逆。子どもたちに、「社会がヤバいから、君たちがよりよくなってくれ」と演説するのは、ほんとうは変です。公的言説の語り方は語り方で受け止めるけれど、教室での実践を組み立てる方向は、あくまで子どもから出発するものでなくてはうまくいきません。他者との話し合いが結果的にどこへ結びついていくのか、先生は見通しながら、活動自体は、子どもがしぜんに話したくなるような気持ちになるものを設定するわけです。
抽象的な表現が多くなるのも、公的言説の特徴です。教科の領域ではもう少し具体的ではあるけどね。抽象されたものから、逆に、そこに具体的な血を通わせ、授業できるもの肉付けする力がみなさんには必要になってきます。
●(異なるアプローチ)学習指導要領の前文に「……勤労を重んずる態度を養うこと」とあるのをみて、国は働かせたいんだな、というのが第一印象でした。教育のことを書いている文書に、働く旨があったのは意外でした。
また、総則より、「各教科の特質に応じた物事を捉える視点や考え方が鍛えられていく」というのが気になった。各教科・科目がそれぞれ独立しているのではなく、同じ目的のために異なるアプローチをするためにそれぞれどれも必要な科目であるというのを伝えたいのかなと、思った。例えば国語は、その手段に「言葉」を用い、数学では「数字」を用いる。その言葉や数字を扱う過程に身につけるべき視点や考え方があるのであり、そうなると、「古典はいらない」論争とかはちょっと違うのではないかと思う。
▼勤労という価値は、近代社会のものです。これも裏を返せばわかりますが、近代以前の身分制社会では、生まれながらに勤労しないで豪奢に暮らしていた人がいたわけですね(まあ、今もいるといえばいますが)。
教科の特質に応じた視点――「同じ目的のために異なるアプローチをする」というその発想です。大きなテーマ――例えば、環境問題、人類が継続できるかどうかという瀬戸際の問題ですね、そこへのアプローチの仕方は各教科に含まれいているいろんな学問知独自の視点があるわけです。たんにバラバラに各教科があるわけではなく、総合的に考えることによって、逆にその教科の特質を意識することになる。チームで戦うとき、それぞれのメンバーの得意技が意識され、際立つようなものです。
学生のコメントとそれへの返信
●先生のからだ
・授業によっては先生が前に立ち授業していく形が好まれる場合があるけれど、真実のことばを出すには「先生の体」がポイントになることを知りました。私が教師になったら穏やかな表情で生徒の周りを歩いてみたりしたいと思いました。私は人に自分の考えを伝えることを躊躇してしまう所があるのですが、この国語科教育法では教室の雰囲気が柔らかいので、発言することができています。先生がどのようにして、私たちの間を周っているかにも注目して学びたいと思いました。
▼生徒の間を歩くことを「机間巡視」(きかんじゅんし)と言います。あるべき机間巡視のめあては、大村はまさんが言っていたような、安心して発言できる雰囲気を醸成したり、困っている生徒にぼそっとヒントを出したりすることです。他の授業でも、机間巡視をする先生がいたら、何の目的でどんなふうに動いてるか、と観察するといいと思いますよ。
・大村はまさんが重視した「先生の体」について、「教室のなかの雰囲気を、柔らかに、楽に、ゆったりさせていける」やり方をとるべきだという考え方に深く共感した。私は教師は上から目線の指導者ではなく、児童生徒の伴走者であるべきだと思っていて、そのためには児童生徒の中に自然と入り溶け込む必要があると考えている。大村はまさんが実践した、丸いすに座って議論に参加するという方法はその理想的な形であろう。私もそのような教室の空気を楽に「コーディネート」できる教師になりたいと思った。
・先生がいることが生徒にとっての安心に繋がる。生徒の近くに座ったり、生徒のメンバーの一人になったりして、教室をコーディネートすると言っていたのがとても印象に残った。国語がほかの教科とは違っていて、特別なのだと改めて感じた。先生の動きもそうだが、どうすれば生徒にとっても先生にとっても楽しい授業になるのかを考えて、コーディネートしたいと思った。
▼「教室をコーディネートする」という感覚は、他の教科や特別活動などでもあると思います。ただ、「国語」はふだん使っている言葉を扱う教科なので、先生が「一人の参加者」の位置にいる、ということが自然な感じはしますね。もちろん、先生だから、圧倒的に豊富な知識や深く広い発想をもってはいるけれど、それを「説明する」のではなく、その知識や発想を生かして、生徒たちの中から発芽しかけている言葉の芽に刺激を与えたり、ちょっと助けたり、他の生徒の意見を全体に流したりしながら、教室全体を温めつつ、じぶんも発見を楽しむ――そんな感じですね。
・私が働いてる塾は、先生1:生徒3で教えるシステムになっているのですが、着席指導というものを徹底しています。通路を挟んで右側に2人左に1人の生徒が前を向いて座っており、先生はその通路の部分で座って待機します。解説するときも椅子を持って移動し、生徒と同じ目線で教えるということが徹底されています。たまに立ったままで指示をすることもあるのですが、生徒の反応や雰囲気がやっぱり違います。少人数相手だからできることだと思っていたのですが、そうでもないということを知り驚きました。
・大村先生は、立ったり座ったりして生徒たちの声を聴き、ときにはそばからアドバイスをして、ときには生徒の心を震わせる言葉を伝えて、こころとからだの全部を使って、まさに全身全霊で子どもたちに向き合っていたのだとわかりました。これを毎日続けるために、体力的にも精神的にも、どれほどのエネルギーを要するのか想像もできません。しかし、子どもたちのことばの神経をめいっぱい働かせるためには必要不可欠なのだと思います。資料内に「やわらかな楽なきもちであって初めて真実のことばが出てくる」とありましたが、たしかに小中学生のころ、シンと静まり返った緊張感のある授業では「間違えないこと」「先生が望んでいる答えを言うこと」「そもそもなにも発言しないこと」しか許されないような雰囲気がありました。このような閉塞感がある授業では、自分らしいことばどころか発言のひとつも出てきません。まずは先生自身が子どもたちの近くへ行って、目線を合わせて一緒に考え、子どもたちが安心してことばを紡げるクラスをつくる。この土台作りこそが、ことばの教室をもっと盛んに、豊かにしていくための要なのではないかと思います。
▼座ったり、立ったり、歩き回ったり…やはりあくまで「先生」は、教室では特別な存在です。子どもたちは指示なしに勝手に移動できませんよね。「先生」はその体勢の変化を意図的に使っています。班で活動しているのを巡回して観察するとき、ふつうは立ったまま立ち止まり耳を傾ける。そして、また次へ移動する。これも「先生」の特別な動きです。
さらに丸いすを使うときは、「先生」のからだはその場に固定される。一定の時間「先生」は「先生」のまま「生徒」のからだになる。活動の一員となる。監視し評価する視線がオフになって、いっしょに考えながら見守る視線に変身するわけです。この、なんというか、「先生」はちゃんといるんだけれど、だから安心なんだけれど、どう見られているかといった緊張からは解き放たれていて、子どもはいっしょうけんめい課題に取り組める、その感じを想像して、覚えておいてください。
●音読レッスン
・詩や短い物語をみんなで声に出して読んだ。ただ読むだけでなく、心を込めて読むことの難しさを改めて感じた。また、読む文章を区切ったりメモしたりしている段階で、細かい漢字の読み方の違いや、現代ではほとんど使われない言葉使いなどに目を向けた時、これは作者達の内側から生まれた言葉たちなのだと気付くことができた。
・黙読では文章をスラスラ読むことができても、音読になると正確なイントネーションが必要になると感じました。生徒の前で音読する以上、正しいイントネーションを習得しないといけないと思いました。また、言葉の意味を知った上で読むことも大切かなと思いました。今回の授業で一つ「平生」の発音を習得できました。
▼声に出して読むために、手で読んだわけですね。するといろいろなことに気づく。目だけで読んでいては気づかないこともたくさんあります。生徒に音読させるときも同じことです。ちゃんと音読させようとすることによって、ちゃんと読むことにつなぐ。それを意図して、音読前の準備をさせることは有効ですね。
・国語の授業における音読の難しさと重要性に気がついた。淡白に読めばいいというものでもないが、感情を込めて読みすぎても生徒の耳に入らないような気がして、そのバランスを考えるのが難しかった。高校では1人で全部読む先生、声優の読み上げCDを使う先生、生徒に読ませる先生がいたが、生徒が読んだりCDの音声を聞いたりするよりも、先生が全て読む方が眠くはなるけれど頭には入ってきやすかったように感じた。高校で扱う文章は長いのでスムーズに読むのが難しいかもしれないが、もし教壇に立った際にはできるだけ自分で読み上げるようにしたいと思った。
▼音読もまた、意図をもってやることなのです。一番最初の音読と授業のまとめとしての音読は、当然目的が異なりますね。感情をこめるのか、たんたんとやるのか。どのくらいの範囲で区切るのか。範読がいいのか、後追い読みがいいのか、生徒が読むのがいいのか、プロの朗読がいいのか、それらを組み合わせるのがいいのか。どんな「声」がどんなタイミングで教室で響くのか、それも大切な授業案のポイントです。
・頭の中でイメージしたことをそのまま表現することの難しさを実感した。なぜ上手く表現できなかったか考え直してみて、深く文章を読み込み、理解しきれていなかったからではないかと思った。短歌や物語が生み出された背景、込められた思いを理解すると、頭の中でより鮮明なイメージを作ることができ、表現にも深みが出るのではないかと思った。また、表現の大切さも実感した。恥ずかしそうに読んだり、感情を入れずに読んだ文章よりも、生き生きと感情を込めて読んだ文章の方が情景が思い浮かびやすく、興味を持ちやすかった。授業で朗読するときはもちろん、教室内で児童生徒に説明したり、話をしたりするときにも声の表現が大切だと感じた。班ごとに文章を音読して、様々な表現の違いがあって興味深かった。このような表現の種類を見つけていくのも面白そうだと思った。
▼「込められた思いを理解すると、頭の中でより鮮明なイメージを作ることができ、表現にも深みが出る」というのは、ほんとうにその通りです。理解と音読表現がつながっていることを確認しておきたいと思います。
・聞いていて本当に上手だと感じた人に話を聞いてみると、家族に音楽に精通した人がいるということでした。それを聞いて納得しました。というのも、その人の音読に惹かれたのは、発声の方法の違いにあると感じていたからです。間の取り方やアクセントなど、テクニック的なものももちろん大事だと思いますし、意識次第である程度改善できる部分だと思います。しかし、それができるようになったところで、より根幹にある発声ができていなければ、魅力的には聞こえないように感じました。そしてその発声は今すぐに身につくものではありません。生徒の理解を深める発声には、コツコツ練習していくことが不可欠だと感じました。
▼先生のための発声レッスンにちょっとだけ行ったことがあります。NHKのアナウンサーが講師。ぜんぜんNHK的な発声は身につきませんでしたが。先生の声、語りは、演劇やアナウンサーとは、また、別物だと感じます。ボリュームが大きいというより、語る内容も語り口も含めて、よそいきではなく、子どもたちのこころに届く、なんというか、家族的な声がいい。語りのプロや身近な先生の中に、きっと、モデルになりそうな声や話し方の人がいると思うので、真似してみるといいです。性別や年齢やキャラクターの違いもありますが、個性に合った先生の声が作られていくと思います。
次期学習指導要領、高校の科目編成についての議論が山場を迎えそうです。申し込めば視聴できます。
https://x.com/mk_kushiro/status/2051607013512417282?s=20
「大村はま」
(いろんな感想)
・大村さんの原点は戦後国語教育の原点だった。状況は違うが、「他者」や「社会」などのキーワードが。今の学習指導要領と一致している点も興味深かった。
・現在の学習指導要領は、大村さんが指導していたときからの課題を結果的に引き継いでいると知り、衝撃を受けた。大村さんの、学習に飢えた子どもと国語科の学習に真剣に向き合う様子には感銘を受けた。教員が子どもに真剣に向き合うことが何よりも大切なのではないかと思わされた。
・主体的、対話的で深い学びの原点であり、新制中学校を0から作ったと学んだ。当時、他者や社会を信じられないということが教育の課題であり、これらの解決には素直に自分が思ったことを言葉にする、伝えることが必要だったと思う。自分の思ったことをことばにするために、言葉を知ること、言葉に触れることが必要で、そうすると私たちが国語を学んできた意味などにも重なっているところがあるなと感じた。
・まず思ったことは、私がやりたいことはこれだ!ということです。私がやりたいと思っていたことを、国語を通して実践していた人がいるということを知れて嬉しかったです。とくに共感したのは以下の2文です。「「事実において同格に扱われている」という状態をつくりだすことがひとりひとりをだいじにすることだ」。「自分がどんな人間だか忘れているところへもっていくことが、子どもを救うこと」。これらは、今私がお世話になっている教授で似たような接し方をしてくださってる方がいるのでとくに印象に残ったのだと思います。
・戦後の単元学習が広がらなかった理由の一つに「真実のことばが使えない人間はいい人間ではないというくらいの覚悟と厳しさが必要だが、それがなかった」が心に響きました。また真実のことばは「教室のなかの雰囲気を、柔らかに、楽に、ゆったりさせていける」やり方を取ると出てくると知りました。教壇に立つ際に参考にしたいです。
・子どもたちが授業に集中できないときは、叱るのではなく「教え方のなにが悪かったのか」とすぐに自分を省みる、とおっしゃっていたことが印象に残っています。授業を聞いていない生徒にもきっと理由があるし、その理由が先生側の授業構成のせいかもしれない、という生徒ファーストの視点(先生が満足する授業ではなく、生徒が興味をもって聞ける授業をつくるという意識)を忘れないようにしたいです。
・大村さんの資料を読んで、一番印象に残ったのは「ひとりひとりをだいじにするということ」の部分で、子どもたちが優劣について気にせず、夢中になりながらも力を伸ばしている状態というのはまさに理想とする姿であると思った。教材中心ではなく、子ども中心の教育をつくることをこれからも意識し続けなければならないと強く思った。
・教師になる際にとても大事にするべきことだと思いました。大村さんにとっての国語力とは「人間を人間にする言葉の力」という言葉に感銘を受けました。人間が持つ学習したい力をどう表に引き出すかが課題であり、教師が考えるべきであると思いました。
・戦時中は「国のために死ぬことが名誉だ」と教え、戦後からは反対に人権の尊重や平和思想を教えなければならなくなった当時の葛藤は計り知れないと思う。そのような激動の教育環境の中でも人間の知的好奇心の尊さを見出し、晩年まで教育に関わり続けていた生き様は真似できないと感じた。
▼印象に残ったことばをぜひ心の種として残しておいてください。現場に立つとき、豊かに芽吹くことでしょう。
「激動の教育環境の中でも人間の知的好奇心の尊さを見出した」という点について。激動の教育環境の中だからこそ、見えた真実があるのだと思います。大村さんは「朝ドラ」の主人公にもなれそうな人ですが、「あんぱん」という朝ドラのモデル、アンパンマンの作者やなせたかしもまた、激動の戦前戦後の断絶の中で、一つの真実に逢着した人です。5年間軍隊にいて、敗戦で「正義」が逆転することを経験します。正義って何? その中で得たのが「飢えた人にたべものを与えること」、そのまことは国を超えても時を超えても変わることはない、という考えです。アンパンマンは、まっすぐにその考えをまんがにしたものです。
「どんな状況になっても、子どもの知的好奇心は生きている」(大村)
「それがどんな人であっても、飢えた人にたべものを与えることは正義である」(やなせ)
いま、確かなものは何もない、とか、価値観は人それぞれ、とか、疑え、というメッセージばかりが、教育現場でも唱えられます。しかし、確かなことはあります。戦争という狂気が終わったときに広がった青空の中に人々はそれを見ました。その確かなことの枠組みの中で、今なお日本の教育は営まれているのです。
○みんなの気づき
・みんなの問いの中で特に興味を持ったのは
「国語力は思考力にどれほどの影響を与えるのか」
「古典を学ぶ目的→知ることが出来れば古典の授業も楽しくなるのではないか」
「新課程になったことでどのような効果が期待されるのか」
という問いである。これから授業が進むにつれて「これはあの問いの答えだ…!」となる場面が出てくるのだろうと考えると今から楽しみだ。
・みんなからの気づきの中で、「新課程」の項目が気になりました。先生が「国語の学びは分けられない。ジャンルを超えてつながる学びを展開していけるといい」と言っていたのが印象的でした。確かに、一冊の教科書でも授業で一切触れない文章もありました。なので、先生のこの言葉はこれから意識すべきことなのではないかなと思いました。
▼答え、に当たるものは、たぶん、例えば教材研究や模擬授業をやってみる中で体感するようなものではないかな。みなさんの中で何かがつながる瞬間が到来するのが楽しみです。/横断的に、いろんな教材を貫く一筋のものを見つけられるようになったら、ブロとして立てます。それにはじつは大学での他の授業での学びや研究、読書も大いに関わります。
〇教室で前に立って、話してみる
・教育実習生としてロールプレイを行うことで「教師である」というスイッチが入る感覚があった。教師であるということは、自分が生徒の手本であり、言葉がそのまま生徒に影響を与えるといえる。それゆえ、授業内での発表とは違った緊張感、責任感のような感覚があった。教師になるということはこの感覚を背負って教えるということなのだと実感した。
・先生の視点について、180度変わるだけでこんなにも緊張するものなのかと思った。実際に教育実習に行くときなんてもっと緊張しそうだな…
・みんなとは少し違った自己紹介をした人に感想をきいてみたところ、「みんなに親しみを持ってもらうために自分のことを知ってもらえるような自己紹介にした」と。脱帽。実際に教育実習生として赴く時の参考にしようと思う。
・先生になりきって前に立ってみて、思っていた以上に緊張して、声も表情も固くなってしまいました。他の人のを見るとジェスチャーを使っていたり、表情の作り方が優しかったりするだけで、聞いている側にも安心感が生まれるように感じたので、真似したいなと思いました。
・180度視点を変えるだけで見えてくるものがありました。目が合う人はよく聞いてくれている、下向いている人は自分の番に緊張しているなど普段先生から見えてる視点は不思議で面白かったです。私自身前に立ったとき、あまり緊張しませんでした。自分の番が来て意識したことは、「教育実習生」はお互いある程度顔見知って時間の経っているクラスに、飛び入り参加することになります。なので、私がよそよそしくする方が親しみづらいのではないかなと思えたので、自分のプチ情報を話して親しみやすくしてみました。
・実際に前に立ちクラス全員と対面した時に、言葉を発することはできましたが、一人一人の表情を見る余裕はありませんでした。これからその力をつけていきたいと思いました。自分の名前の漢字の説明をしてる方を見ていいなと思いました。生徒とのコミュニケーションのキャッチボールをするのもいいのだと感じました。
・高校のころ生徒会の活動を通じて多くの人前で話すことへの抵抗は克服できたと思っていたが、生徒という立場から卒業していざ「先生」という立場という設定で立ってみると、向けられる視線の種類が変わった気がして当時とは違った緊張感で全くうまく話せなかった。しかしジェスチャーを交えながらとても上手に話している人もいて、その人たちと自分との違いは何なのだろうと思った。
・教育実習生という体で前に立つと思っていた以上に緊張しました。他の授業でも自己紹介をする場面はよくありますが、それとは全く違う感じがして、ただ自己を紹介すればいいというものではないような気がしました。あくまで“先生”として前に立たなければならないというのをひしひしと感じ、表情、声のトーン、言葉選びなど、今まで以上に気にしていかなければならないと思いました。しかし、そこで守りに入ってどこかで聞いたことのある定型文で終わらせてしまっては自分のことは何も伝わらないという難しさも感じました。
・……人前に立つ機会はそこそこ多い方なので、あまり緊張はせずに話せたが、教員志望なので、将来実際に教育実習生として学校に赴くイメージを、この機会に強く実感することができた。相槌を打ちながら聴いてくれている人が何人かいて嬉しかった。
・先生の位置に立って話してみると、緊張してしまい自分が何を言っているのかがわからなくなってしまいました。先生の位置は生徒の立場として発表するのとは違いましたが、どちらも相手に伝えようとする意識が必要だと思いました。身振りや手振りを使って自己紹介している人もいて、じゃんけんをみんなでやってみるという案は面白かったので参考にしようと思いました。
・……緊張して、自分が思っていたような挨拶はできませんでした。ジェスチャーで伝えている人や、抑揚をつけて話している人もいて、人に伝える時には言葉だけじゃなくて、そういったところも真似していきたいです。
▼ほとんどの人が「緊張」しましたね。現職でも初めての人たちの前に立つときは緊張するでしょう。一方、プロの「学校の先生」は数百人の前でも思うように話せます。そのコツは「自分の言葉で話す」「一対一で対話しているつもりで話す」。多数を相手にしていると思いすぎると、たくさんの目がこっちに向いているのを意識して緊張します。投稿にもあったように、まずは「相槌を打ってくれる」人、にこにこしている人に的を絞るのもいいです。「自分の言葉で」というのは、こう言わなければ、という思いから自由になろう、ということです。自分の呼吸に気づき、にっこりして、みんなの表情を眺める、反応を見るゆとりができればしめたものです。いろんな場面を求めて体験してくださいね。(面接でも行かせるよ!)
〇教育は未来をひらく
・国語科として重要なのは子供が時代の変化・変容に向かい合い、他ならぬ自分自身の未来をひらくことばの力を育てることであるという一文は、第一回の振り返りで他の人がだしていた「国語力は思考力にどれほどの影響を与えるのか」という問いの答えに近いのではないかと思った。
「子ども自ら」=アクティブラーニング→でも実際には難しいところもある。
資料を読んで、「ことばの働く現場に立つ」「ことばの生きる現場を自ら体験する」ことが内なる力を育むきっかけになるのではと考えました。言語学習能力を高めるためにも、私は実際の教育現場に関わりたいなと思います。
・内なる力とは、はてなをつくり、それに対して生徒が考え、思考する力の筋肉をつけていくことであるということを知りました。以前受講していた講義で出てきたブルーナーを思い出しました。
▼「ことばを働かせる現場」を作り出すことが授業者の仕事です。すらすらとわかりやすい説明を聞くだけでは思考する筋肉はつかないです。どうやったら心地よい汗をかけるのか。どの程度の「?」なら、子ども自らがんばって超えられるのか。そんなことを考える仕事です。
〇対話の精神
・会話と対話の違いを初めて知った。「柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺」を他者に向かって説明することは虚しい、という一文が「察し合う」コミュニケーションを端的に表していて興味深いと思った。
・対話の実践について、そもそも対話とは?→「異なる価値観を持った人と出会って議論を重ねたことで、自分の考えが変わっていくことに喜びさえ見いだす態度」であり、そのような異なる価値観について「粘り強く共有できる部分を見つけ出していくこと」が肝要であることを学んだ。
・教師は生徒に向かって話すため「対話」になる。しかし、「会話」も教師はしなければならないと思う。教師と生徒はあくまでも人間同士の関わりであるため、人と人の関わりを築くために「会話」もしなければならないと思う。教員免許を取るにあたって生徒と心を開くための「会話」、授業を行うにあたっての「対話」を勉強しなければいけないと感じた。
・対話とはAとB異なる二つの論理が合わさり、Cという新しい概念を生み出すということ。私はこれをグループワークで実践して初めて身に染みて理解することができました。他の班では、互いに〈なぜそれをしたいのか〉を話し合った上で、異なる一つの概念を作っていました。私たちの班ではその話は出なかったので、勉強になりました。
・印象的だったのは「他者との関わりによって自己の価値観を変えていく」という点が強調されていたことです。環境や他者を変えようとするのではなく、自分が変わることを恐れない姿勢。この態度を形成するための一端を担うのが”ことば”を教える国語科の教育で、国語科での学びを通して自分のものにした”ことば”と態度によって新しいアイデアを模索するのが対話なのかもしれないと思いました。
▼資料では、会話/対話を対立的に描いていましたが、察し合ったり、会話したりすることは、じつは対話の中にも含まれています。今回の「文化祭」というテーマは、「日本の学校教育を経験したコミュニティー」という前提で選ばれています。その中では、例えば「模擬店」といえば何かが通じる。あーあれね、そんなことあるある!というふうに、会話的に話が始まったはずです。そこでお互いの認識が温まる。この過程は必要です。その後、指導者は「対話」のモードに強制的に変更させたわけです。今回は、さすが大学生、何も言わなくても「〈なぜそれをしたいのか〉」を出し合っていました。高校生だと、空中分解しそうな班が必ず出ますから(笑)、たぶんどこかで、「それぞれがやりたいポイントは何?」なんてヒントを出すでしょう。「先生」の役割にも注目してみてください。
〇対話をしてみる(グループワーク)
・文化祭の出し物を決めるグループワークを通して、対話の身近さを実感した。参考資料にもあったように、日本人は対話を避ける傾向があると言われている。しかし、上記に気づいて、それは対話の本質を学ばない、知らないことにも原因があるのではないかと考えた。「言葉を操る」ための国語の授業でより対話の本質を学び、実践する機会を持てば、伝統的な日本的なコミュニケーションを進化させることができると考える。
・小中高で意見が割れたときに対話を通して折衷案を出すことは記憶上なく、多数決で決まることがほとんどだった。意見に対して「何故」と問うことで意見の中の本質が見え、より多くの人の希望に沿った折衷案が出せたように思う。小中高でももっと対話を取り入れるべきだと感じた。
・文化祭の出し物の意見をまとめる際は、班のメンバーがみんな飲食系という意見だったのでまとめやすかったかなと感じました。他の班で、なぜその出し物をやりたいかを考えていくと、別の案でまとまったと聞いて、考えの奥を探っていくことは、思いつかなかった新たな考えが出ることもあり、大切なんだなと感じました。
・私たちの班では全員が模擬店を前提とした飲食系の案が出たので比較的まとめやすかったが、飲食系の案がたくさん出ると最終的に販売方法やアプローチを変えながら結局全てやる結論に達しやすいことに他の班を見て気がついた。今回は実際にやるわけではないので綺麗にまとまったが、実際にやってみるとなると場所や予算等たくさんの問題が出てくると思う。そのように実践的な対話を試みるとき、各々の希望を通すためにより緻密な意見の擦り合わせが行われるため、自分の意見を通したり建設的な対話をするためにもまず相手の言い分を正確に理解することが求められると思った。
・一見本当にバラバラで、どこに共通項を見つければいいのか?というものでも、理由やそこに至ったプロセスを明らかにすれば、実は方向性が同じだった!というものや、そういう意図があるならその案もいい!と思えるものがたくさんあるということに気づけました。また、対話をするには、一人一人が自分の答えに明確な根拠を持っている必要があるように感じました。なんかこれいいなで終わるのではなく、なんでそれがいいと思ったのかを言語化することを日頃から心がけていきたいと思いました。
・文化祭の出し物についてみんなで話し合った。「何をするか」よりも「どうしてその出し物がやりたいのか」に重点を置いて話し合いを進めると、自分がやりたい出し物ではなくても、やる上での「思い」を大切にしながらみんなで取り組めることがわかった。
・やりたいことに対して、なぜそれがやりたいのかをまとめることが大切だと思いました。案を出してみると共通の部分が出てきて、削って良いところがわかったり、一つにまとめられるところがわかったりしたので系統の違う案だからという理由で案を取り下げてしまうのは勿体無いと思いました。
・対話するということで、グループで文化祭の出し物について話し合いました。高校の時は候補を出して、すぐに投票して、話し合いをする事はなかったのですが、話し合いをしてみて、全員の意見を取り入れた新しい案を出せました。実際にクラスで何かを決める時はすぐ決めずに話し合いをする大切さを伝えていくべきだと思いました。
▼担任になればホームルームで実際にこのような場面に立ち会います。ホームルームでも今回のような対話をさせたいですが、おそらくホームルームの中で直接指導するのはむずかしい。でも、前もって、国語の時間である単純化された仮想の活動として、対話のききめを学んでいれば、ホームルームで応用できる。そういうものです。
「根拠」や「意図」の次元に議論の地平を下ろすことが、新しい案につながる可能性を開く。その気づきが多かったですね。そのためには、自分の中に明確な根拠・意図が必要となるわけですが、ほんとうは「なんでそれ?」「なにがやりたい?」と聞かれて初めて、それを意識するのではないでしょうか。潜んでいたものが言葉となって現れるのは、「言い分を正確に理解しよう」と耳を傾けてくれる聞き手がいるからではないでしょうか。
○その他
・今回の授業の主旨からは外れますが、わたしは『「母語」を教える/学ぶ』のが国語科であることを改めて認識して、衝撃を受けました。国語は、日本語を第一言語とする生徒が学ぶ日本語の授業であることが大前提ですが、そうではない生徒が一定数存在することを知っているからです。わたしは高校生のころ、英語が母語の帰国子女やマルチリンガルの同級生(日常的な日本語での会話に全く問題なし)が多かったのですが、国語の授業が辛そうな生徒が何人か見受けられました。わたしは、そのような生徒も含めてどんな人でも国語を楽しんでほしいと思って国語教員を志したので、『「母語」を教える/学ぶ』が基盤となっている国語科の学びについて、少数派の視点からも時間をかけて検討していきたいです。
▼帰国子女等とは別に、そもそも日本にルーツがない、日本語環境で暮らしてきたわけではない子どもたちが同じ教室で学ぶケースも、どんどん増えています。日本語教育が必要な人たちを受け入れる枠を設定している学校もあります。
「少数派の視点から」という観点はとても大事ですね。母語ではない子どもたちがいる場合は、当然方法を考えることになります。一方、見落としがちなのは、個人的な言葉の力の差異です。例えば、読字速度の差異。自分だけ読み終えてない、授業は進んでいく……。また、心理的なことが要因で発話がしにくいという場合もあります。これらは、学校生活のあらゆる場面に影響します。国語として何ができるか。現場にはそんな課題もあります。
かんたんではないですが、「少数派――一人一人の視点から」という発想は、逆に国語教室を豊かにしてくれる観点でもあります。ゆっくり読めばわかるなら、ゆっくり読んでいいしくみを作ればいい。ゆっくり読む人は、パッパと読んだ気になっている人には見えないものを見ています。発話が苦手なら、書けばいい。発言はしなくても、家へ帰ってから、たいへん鋭いことを書いてくる子もいます。
2021年12月号「月刊国語教育研究」に書いた文章。次期学習指導要領に向けて、高校の科目編成についても検討が行われるだろう今、備忘として載せておきます。
---------------
小特集「新科目『現代の国語』『言語文化』」
構想と実践
一 「対応」を超えて
いよいよ新科目「現代の国語」「言語文化」が始まるという今になって、高校の国語教科書をめぐる報道が人々の目に触れ、他教科の先生からも質問される機会が増えた。
「そうなるんですね。小説と古典が同じ科目に入るのか」
新しい教育課程の編成の過程で、国語が大きく変わることは、校内でもアナウンスしてきたつもりだったが、他教科の先生は内容のことまではわからない。しかし、国語科の教員も、内容の問題を本格的に考え始めたのは、この春、新教科書の採択見本を手にしてからではなかったか。これまではもう一つの問題――「論理国語」や「文学国語」をどう組み込むかという編成上の問題に焦点が当たっていた。「現代の国語」「言語文化」は必修単位数としてはこれまで通りだったため、内容の問題が浮上しにくかった。さらにもう一つ「大学入学共通テスト」がどうなるのか、という問題が教員の関心を奪っていた。
「文法の時間がとれないな」「『羅生門』はどこでやる?」「『現代の国語』って結局何をやるの」といった感想が、これまで通りを可能にしそうな教科書に視線を導いたのも、ある意味、むべなるかな、というところか。このような現場性と学習指導要領言説の関係を、かつて考察したことがある。(『「国語力」観の変遷』(二〇〇六年 溪水社))
変えようとする積極的要因だけでなく、変えまいとする消極的要因もまた、変遷を規定する。経験主義を転換させた現場の保守主義はそれである。逆に、現場に定着した読解中心の内容主義は、それへの批判として、学習指導要領を、表現中心の言語主義の強化に順次みちびいた。/学習指導要領言説の最後の、そして、最強の障壁はこの現場性である。(中略)/教科書および副読本、指導書等の質とバリエーションは、実質的に実践の方向性と質を決定するが、これらのテキスト群は必ずしも学習指導要領の先端部分の実践化に適合していない。たとえば、本論では、初期の検定教科書が単元学習を理解していなかった例を見た。そのほかに、教科書自身が現場の保守性にあわせる場合もある。 (「結論」「2 変遷のダイナミズム」)
事は繰り返す。そこには構造が横たわる。公的言説は課題に対応しようとし、現場の大衆性もまた、公的言説に対応しようとする。しかし、私たちにとって重要なことは対応ではない。構想と実践。二〇二二年度はもうすぐ来る。
二 「現代の国語」の本質
実践者はシンプルに考えればいい。構想の源泉は眼前の実態にあり、実践は眼前の実態に基づく。「何々することが求められている」からそうするのではない。眼前の実態から、自分たちが求めることを構想し、実践するだけだ。その助けとして、公的言説や教科書を活用すればいい。
「現代の国語」のキーワードは「情報」である。生徒も私たちも、同じ現実社会の情報の渦の中で生きている。どう向き合い、扱うか、いっしょに考えよう、というスタンスで構想するのがいい。ともに「正解」を模索するという点で「国語表現」の方法論を使うのが適切だと思われる。
昨年度、「現代の国語」を見据えて一つの実践を試みた。
コロナ禍による休校の後、6月の再開後、試みたのは、現在進行形で流れてくる情報を分析し、考えを形成し、実践に生かす授業案です。素材は、「緊急事態宣言」をめぐる情報です。多くの人間に影響を与える判断がどのような思考を経て決定されているのか、それをどう捉えればいいのか、高校生3年生と考えました。/単元名は「データと判断」。新型コロナ対策として大阪府が設定した「大阪モデル」の分析を主な活動としました。
教材は、新聞記事と大阪府の対策本部会議の配付資料で、誰にでも入手できる。「大阪モデル」は行動制限の判断基準として示されたものだが、分析前は、生徒も私もなんとなく科学的な基準だと考えていた。しかし、様々な立場からの発言とデータを整理・分析していくうちに、科学的な基準というよりも政策目標と捉えるべきだということが明らかになった。生徒たちはこの過程で、かなり真剣に読み、話し合い、考察を書き綴っていたが、それはやはり現実の自分たちの生活を左右する問題を扱ったからではないかと思う。さらにここには、これまでの評論文の学習と結びつく「こうである」という認識(知)と「こうすべきだ」という実践の問題という本質問題が含まれていた。
現実の「情報」の問題は、〈情報の断片性〉の問題だといえる。メディアを通じたものであれ、身近な生活の中に飛び交う声であれ、私たちはほとんど、ことばの断片を瞬間的に処理して生きている。人間は欲望の力によって断片を色づける。ここに落とし穴があることは、「現代の国語」教科書の様々な読み教材も教えている。国語教室の課題は、断片を繋ぎ、視野を転換し、思考を促す場を設定すること。そして、もう一つ、今度は自分の発信の受け止められ方を考慮して表現を練る場を設定すること。必要なのは、立ち止まり、見つめることを可能にする場である。
その場を作るための教材は、現実の社会にいくらでも転がっている。そこにある課題も数限りない。そして、どのように情報を扱うべきかについてのたった一つの正解というものはない。しかし、だからこそ、教室という場の中で、ことばの神経を精一杯使った活動を実践することに意味が生まれる。電子端末も各生徒に行き渡りつつある中、あれこれと授業の構想を練るのは、わくわくすることだと思う。
三 「現代の国語」と「言語文化」をつなぐ
「現代の国語」には「疑え」というメッセージが響く。しかし、「様々な視点から批判的に考えた」だけでは、では、何が本当に正しいのか、という問いは消えない。
益田勝実という国文学者がいる。一九五〇年代、彼は高校の教員として、文学教育、古典教育に取り組んだ。益田は、現代の要求が古典を呼び出す、と考える。井波真吾は「近代の文学と若者たちが教室のなかでどんなにぶつかるか、ということが前提にあって、そこで答えきれないもの、諸要求がもりもりしているのです」という益田のことばを引用し、益田にとっての古典教育は、その要求に応えるもの、「近現代文学テキストを用いた文学教育と相互補完の関係にあるものだった」と述べている。(『古典教育と古典文学研究を架橋する』二一八頁 二〇二〇年 文学通信)
益田のことばを受け、私は、「現実の情報と若者たちが教室のなかでどんなにぶつかるか、ということを前提として、そこで答えきれない、諸要求がもりもりしている」ところに「言語文化」をぶつけたいと思う。
例えば、「広告」をモチーフとする活動が「現代の国語」で行われる。そこから必要な情報を読むこともいいだろう。効果的な伝え方を学ぶのもいい。しかし、現実の広告とぶつかるということは、その広告されるものの価値、そこに潜在する問題まで問うことでなければならない。
「益田は、生徒たちに近現代文学テキストを読ませることで、生徒たちを取り巻く社会が抱える問題、すなわち『その時代時代の文学がとり組まねばならなかった主要な対象、人間愛の問題、生と死の問題、支配・被支配の問題、戦争と平和の問題、女性解放の問題、「家」の問題等々』に対して、生徒たち自身が認識を深められるようになることを目指していました。」(井波、前掲書)
私たちはここに、現在の決定的な問題、環境問題を加えなければならない。益田は、近現代文学テキストとぶつかることに問題意識の醸成を求め、さらにそのための確かな足場としての古典を期待したが、私たちの構想にもこの枠組は生きるのではないか。私たちは、評論も含めた「言語文化」に益田が求めたものを求めるべきではないか。
先日、安部公房の「棒」を高校一年生と読んだ。一人の男が「棒」になり、不思議な先生と学生に裁きを受ける。
これらのことから、私達は、作者がこの作品で伝えたいことは、自分の意志をもたずに人に使われることでしか存在価値を見いだせないことは、誠実などではなく、ただ受け身で単純なだけだ、という注意喚起であると考えます。自分の意志をもち、主体的かつ積極的に動ける人が増えてほしいという社会に対する願いが込められている作品だと思います。
そして、作中で棒が受けた罰は、「置き去り」です。棒が捨てられても、周囲の雑踏は変わらず動き続けます。自分の意志を持たず、言われるがままに動き、精神的な成長を求めようとしない人は、いくら誠実に見えても、代わりがきくので、いつかは見捨てられ、振り向いてもらえなくなる。後に残るのは、軽い棒で例えられている、薄っぺらい人生だけ。そのような厳しい現実を示唆した罰であるのでしょう。(ある班の発表)
しかしまた別の班は、「そもそも『先生』や『学生』は何を基準にどうやって人を裁いているのでしょうか。私たち読者は、彼らが人智を超えた存在、かつ人を裁く正義の存在であるという先入観から無意識のうちに彼らの倫理観を認めていますが、それは本当に正しいのでしょうか」と、「棒」への批判を再批判していた。さらに別の班は、最後まで「棒」自身が自分を見つめていることをふまえ、「主人公が実は、自分のように棒になった人、すなわち無気力な『でくのぼう』がたくさんいることに気づいていることを表しているのではないでしょうか」と発表していた。学習済みの評論で言及されていたアーレントの『人間の条件』を引用し、議論を整理しようとした班もあった。
私は、例えばこれらの問題意識を、「現代の国語」の諸課題、さらに『論語』のような古典テキストにつなぐ実践を構想をしたくなる。主体や倫理や自己認識の問題は、現在と二五〇〇年前の文明を貫いている。
このような発想は「国語総合」に戻るもののように見えるかもしれない。その通り、必要なら戻ればよい。問題意識が起動し揺れ動く中で、ことばと格闘する場を作ることが仕事である。必要なら「現代の国語」の中に『論語』をぶつけ、「言語文化」の中で分析の訓練をすればいい。私たちには、実態の必要に応じて教材を開発する自由と責任がある。のびのびと構想し、豊かに実践しようではないか。