(送ってもらったお礼に書いたもの)
御手洗靖大(紹介)/『和歌文学の基礎知識』(谷知子著)(小池陽慈編集『つながる読書─10代に推したいこの一冊』所収)
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(お礼、ここに書きますね♩)
本、送っていただいてありがとうございます!
そして、あのお手紙!
どちらも読み、御手洗さんの原点という場所を知ることができました。その種が播かれた場所に私もいたということですね。国語便覧の歌も、紹介されている谷知子さんの本も、そして、私の言葉の断片も、綿毛のついた種のように、あなたのどこかに揺れ落ちて、あなたはそのときからそれに水をやり、育て始めた。――それがいま、言の葉になっている。葉をつけている。
そういう思いで読みました。
「この本を読んでいたころ、ちょうど東日本大震災が起こった。
連日テレビから流れてくる圧倒的な世界に言葉を失った。これが現実に起き、自分も感じたあの揺れが多くの人々の苦しみと悲しみにつながっていて、自分には何もできないということ。現実世界が言葉を越えるとき、言葉を失って途方にくれてしまうことを思い知った。」
この部分をまさか今日読むことになるとは。
御手洗さんたちは、高一の終わりでしたね。
十代にあの空気を呼吸した人たちが、いま書き始めているのだな。あの本のほかの書き手たちにも近い年代の方がいますね。
それは言葉が無効になる感覚をもつという共通体験かもしれない。
「私達には、和歌という表現がある。」
御手洗さんは自分の心の中の種たちを豊かに、創造的に育てようとしていますね。
「言葉を取り戻すために、先人の言葉を借り」る実践としての和歌。
この着想は、言葉というものの根源に触れるような発想に根が伸びていると私は思いました。だって、ここで発している言葉って、すべて先人の言葉のリメイクなんですから! そしてそこに一つの言語表現形式が用意されている!
素人の思いに過ぎませんが、この着想から、和歌生成のダイナミズムやそれらが形成する共感性、共同性――現実のどうしようもなさを乗り越えていく力がともるしくみを明らかにしていく研究が広がっていくような気がします。
それは教育の問題としても、現実に右往左往している私たち平凡な大衆に効いてくるもの、使えるものに育てることができるような直観があります。御手洗さんが「和歌の箱庭化」作用という知見に救われたように。
「現実世界が言葉を越えるとき、言葉を失って途方にくれてしまう」という部分や救いとしての和歌という考えを読み、昨年末訳書が出た『戦争語彙集』を思い出しました。ウクライナの詩人が避難者の証言から編集した本です。
https://www.iwanami.co.jp/book/b636761.html
「ほんとうの心をどうやって言葉に乗せればいいのか」。
御手洗さんの指摘してくれたこの問いを私も自分の心の種として播いておきたいと思います。
ほかの方の文章も読んでいきたいと思います。
ほんとうにありがとうございました。