国語教育いろいろ

高校、大学の現場での議論のいろいろです

水の東西 鹿おどしのコーンという音

客観的な対比として読んでしまうと

違和感があふれる。

しかし現場では評論の対比スキルのための教材としての需要がある。

ーーいつも、教科書に採るか否かの議論が紛糾します。

飯間さんの日本の東西の分け方についての文章は、

水の東西の分け方に対するダイレクトな批判の教材として置かれています。

いいか悪いかは別にして、

この教科書ならではの扱い方です。

飯間さんは、

「水の東西は印象批評だ」と言って批判します。

それってあなたの恣意的な感想でしょ?

という意味です。

⭕️印象批評も悪くはない

https://kotobank.jp/word/%E5%8D%B0%E8%B1%A1%E6%89%B9%E8%A9%95-32921

しかしそれに対して、

「はい、印象批評です。何か問題でも?」

と切り返す立場もありえます。

ぼくは、鹿おどしで心くつろぐんだけど、

ニューヨーカーは、噴水で心くつろいでるみたい。

何が違うのかな。

一応そう問いを立てて書き始めたわけです。

このしかけが、これだけ好まれつづけてきたのは(といっても江戸時代以後のようですが)、

この心的状態を求める何かが、

この文化を支える人間たちの中にあるからではないか。

その、既成の言葉では表せない何かを

何とか書きたい。

ただし印象批評は、

個人の感想でしょ、では終わらない何か、

多くの人に深い納得を示す洞察として示されなくてはなりません。また、表現の巧みさも必要。

誰が書いてるか、もけっこう重要なんです。

これはエッセイ全般がそうです。

例えば太宰治が日常をエッセイにしたら、

なんか、エッセイなんですが(笑)、

そのへんのオッサンが日常を書いても、

あ、そう、で?

でおしまいです。

大谷翔平くんが、

二刀流と一刀流を対比したエッセイを書いたら

なんかみんな説得されちゃうでしょう?

今やったら。

山崎さんがこれを書いていた時代には

近代西洋文明の問題を乗り越える鍵を

(敗戦から立ち直り経済的に成功もした)

日本文化のあり方に求める論調が多く、

また名高い山崎さんや!というので

みんな説得されました。

⭕️気づきのサインとしての鹿おどし

心理療法にも使われるマインドフルネスのことを少し例に出しました。

もともとはブッダのころからやられてる瞑想の手法です。

人間はほっとくと、

勝手に妄想に走る脳を持っていて、

これがいろいろ悪さをするそうです。

(たしかにそうやな。)

でもチーンって一定の間隔でおりんが鳴ると、

ハッと気づいて、自分に戻る。

同じように

庭を見てくつろいでいても、

しまいに、しごとのこととかで頭がいっぱいになってたりするもんですが、

あのコーンというのが鳴ると、

ハッと今ここに戻る。

庭の美に気づき直す。

鹿おどしがそういう仕掛けだというなら、

私には、わかる気がします。

外界で変化するもの、

流れるもの、

楔を打ち込むことでそれらの中にいる、

今ここにいることに気づき直すしかけは、

古今東西いろいろあります。

学校のキンコンカンコンの元は、

教会の鐘🔔でしょう。

お寺の鐘も、

時間のお知らせだけじゃない、

流れ、移りゆく世界の中にいることを知らせる

精神性を持ってます。

山崎さんの水ー流れるものへの感性についての洞察は、急ぎ足すぎてついていけないのが

正直なところですが、

宗教的なーある意味人工的な鐘のしかけ以前に

縄文時代なのかなんなのか、

古来から自然と一体になって暮らしていた

人々の遺伝子の中に

変化を恐れない自由でやわらかい感性が

含まれてるんじゃないの?

という仮説です。

人間は変化を恐れる。

自然を恐れる。

大雨か、津波か、不安だ。

時間を恐れる。

明日どうなるか、不安だ。

それは見えないからです。

宗教は神とのコミュニケーションを確保して

恐れ、不安から逃れようとする。

文明は自然を飼い慣らして

その不安を除こうとする。

しかし、

まあええやん、

なるようになるさ、

見えなくてもええやん、

こわがらんでもええやん、

おれたちも自然の一部なんやからさー

っていう感性で生きてた人たちがいるとしたら、

それはそれで、

現代人にも参考になるかも。

そんな予感を持って書いている感じがします。

一つの感想だけど。

その子孫やから、

電気とかなくてもエンドレスで自然に

コーンとなり続けるしかけを

作ったんかなあ。

元は害獣対策やったようですが、

それを庭に置かせた精神性は、

実用を超えた、

作った人たちも気づいてなかった欲動によるものあったーー。

それに、ぼくは気づいちゃったんだ。

てな具合ではなかろうか。

山崎先生、どうですか?