国語教育いろいろ

高校、大学の現場での議論のいろいろです

ありのままの世界は見えない

模擬授業お疲れ様でした!
みんな来てくれてよかったね。

今日の鍵は、
⭕️導入(第一時)の扱い方
⭕️事例の扱い方
⭕️教師の役割
といったところでしょうか。

教科書のとは違う「だまし絵」を持ってきたのは、おもしろかったです。
生徒の意見を整理するときに、
人によって
「着目する順番が違う」点に触れていたのがいい。
というか、
「まずどこを見るか」が関心のあり方によって異なる、という点を取り出すためにーー本文とつなぐためにやったことですからね。
となると、指示はしていましたが、
「着目した順番」をそれぞれが明確に記録することをもっとはっきり指導してもよかったです。

このあたりの指示の仕方と
後の回収の仕方が、
授業のストーリーーーこの授業はどこに向かっているのか、というダイナミズムを生んでいきます。

授業中にも言ったように、
事例と主張(考え・説明)の関係を精緻にたどる作業は、どこまで行っても重要です。
特に高校に入り、
内容が、彼らにとって身近ではないものになっていきます。
そのとき、例をヒントになんとか、言っていることをこじ開けて、理解していくという手を訓練しておくことは大切になってきます。

 

いろんな生徒が
とりこぼされることなくついてこられるようにするには、
一つには、例示したように、
形式段落一つといった⭕️短い範囲で、
主張の文に印、事例の文に印といった比較的間違いようのない⭕️手を使った作業をさせ、⭕️隣どうしで答えを確認する、といった、
スモールステップの活動を仕組むことが必要です。

特に最初、立ち上がりのところ。
最初を丁寧にいく。
みんな、ついてきてる感じ。
さあ、どこへ行くのかな、と期待する感じ。
導入の絵や動画はどう関係するのかな、と問いが湧いている感じ。
こういう雰囲気を教室に醸成させるのです。

教科書に印をつけるといった作業も、
後でさまざまに
事例と主張を分析していく作業につながっていくし、
最終的にテキストが、
二つのモードに色分けされているような状態を作り出す、その布石になります。

教科書の事例が、
生徒の実感を生むかどうか、
保証はありません。
上の学年の評論文などになると、
書き手の挙げる
例や引用がより文章をわかりにくいものにしているケースもあります。
そういう意味で、
⭕️教員が別例をいくつか用意する
のは必須とも言えます。

ただし、探してみると、けっこう難しい。
こちらもほんとうによく理解していないと間違った例を挙げてしまうおそれがあります。

例探しは、じつは一人では限界があって、
現場では担当者で情報交換することがよくあります。
みなさんも、友だちのアイデアを聞いてみると、大きなヒントになることがありますよ。

例探しのスキルは、
テキストの例がピンとこないときに
別の例を自分で編み出す、という力につながります。
ここで書き手が言うてることって、
あんなことやこんなことのことやんな!
と自分の経験や知識で理解できる例に落とし込むのも理解の方法のひとつです。

私たちの知覚・情報処理は、
生得的な次元での規定、
文化的な次元での規定、
によって、それぞれ環境で生きてきくために
機能しています。
人間はインストールされている言語による規定によって世界を分節している、というのが、
続く教材、ものとことば、の主題になります。

そして、第三教材として、
真実は一つじゃない、という、
メディア論が置かれています。

この構成意図は、
セグロカモメやアフリカの村人のように、
あるいはある種の言語で規定された人のように、
もうどうしようもなく、それしか見えない、それが見えない、という状態から、
カメラの位置を意図的に変えることで、
編集のしかたを意図的に操作することで
世界の見え方を操作できる可能性(と危険性)へ考察を伸ばしてみよう、というところにあります。

「現代の国語」は結局、情報処理の偏りー世界の分節化の偏りの問題を一貫して扱っているわけですが、
最終単元はそのまとめと発展のために、
人間の世界の捉え方の限界と可能性について考えさせるー書かせるものとなっています。