国語教育いろいろ

高校、大学の現場での議論のいろいろです

言語文化としての「夢十夜」

先日の模擬授業などを通して、
思いついたことを書いておきます。

第一夜には
「夢」「男と女」「生死」「時間」といったモチーフが出てきます。

そう思ってながめると、
これは古典とつないで考える単元が構想できるのではないか、
と思ったのです。
「夢」つながりでいろいろな作品を
比べながら読んでみるのは、おもしろいと思います。
実践されている例もあるように思います。

高一でよくやるものなら
例えば「伊勢」。

駿河なる 宇津の山べの うつつにも 夢にも人に 逢はぬなりけり

君には夢でも逢えない。もう忘れちゃったんかな。

「うつつで逢う/夢で逢う」

この図式は、日本古典のなかに変形しながら、
よく出てきます。一つの〈公式〉みたいなものですね。

思ひつつ 寝ればや人の 見えつらむ 夢と知りせば 覚めざらましを(小野小町

夢の中のリアリティがいとしい!

私たちはときに
うつつで抑圧していることを
夢で回復し、
夢の中でほんとうのことに気づいたりもします。

星をもぐ女が夢にあらわれてマンゴスチンひとつ置いてゆきたり(俵万智

手の届かない星を、食べられる果物として置いていく。どこか「暁の星」と「百合の花」の感触に通じる気もします。

「夢」を含んだ、古今の作品を渉猟してみれば、興味深い言語文化の単元が構想できるように思います。
学校では、「夢の実現」といったスローガンを安易に使うものですが、
夢にまつわるほんとうのパワーを
言語文化の中に探ってみるのは、
意味のあることのように思います。

夢はうつつを前提として見るのものですから。