協議で言及してくださったように、
この作品の特徴は、
視点人物(チサ)と語り手の〈ズレ〉にあると思います。
かつ、「あとがき」に書かれていたように、
「いずれも幼い者を主人公にした」作品だという点が特異です。
保育園児は、「語り手」のような語彙を持っていません。
しかし小説家は、
彼女を視点としているけれども彼女ではない「語り手」
を設定して書かなくてはいけない。
違和感を抱かせず、
保育園児の視線に同期させつつ、
読み手を物語の世界へ導く。
そして、
もうひとつの大きな課題、
「父親の心情」を読み手に感じとらせなくてはいけない。
一歩間違えれば、
「保育園児がそんな複雑な心情の機微を感じとれるわけないだろう」
といった感想をもたらしてしまう――
――これは作家としてかなり挑戦的な試みだったろうと思います。
この作品が成功しているとしたら、
その秘密を考えるのが、
読者にとっての挑戦になるのではないでしょうか。
子どもの視点から描く物語はたくさんありますが、
よくあるのは、
「回想」のスタイルをとるものです。
これなら、
視点は幼い自分ですが、
その同じ自分が成長して語っているわけなので、
違和感がない。
(私たち読者自身が、子どもの頃の体験を
「現在の語彙で」回想し、解釈する経験に慣れているから。
例として、教科書教材「海の方の子」があります)
「メリー・ゴー・ラウンド」に関して、
私たちは、どこかの瞬間で、「父親」の意図に勘づき、
その結末へのおびえのようなものを感じながら
読み進めます。
そのおびえと、作中のチサ(サ・チの逆)の、
言葉にならないなんらかの勘づきは、
響き合いながら、
私たちに「父親」の思いを探ろうとさせます。
読後、
私たちは、
何も明確なことは説明されていないのに、
すべてがわかったような気持ちになり、
父と子の両方に共感させられ、
心動かされます。
何か、祈りのようなものに満たされて
ページを閉じる。
教室での〈謎解き〉は、
おそらく全員が理解するであろう父親の意図について
・どこにも書いていないのになぜそれが読み取れるのか?
また、
父親の意図は完遂されないまま小説は終わりますが、
・なぜ、それは完遂されなかったのか?
・チサはなにも「わからなかった」ことになっているが、それはほんとうか?
(チサの、意識に上らない行動の意味・チサ視点で描く効果)
こういった点についての討論がヤマになるではないでしょうか。
●この読後感は、本文のどこからやってくるのか。
「動物をみにきた自分たちが逆に大勢の動物たちにみつめられているのに気がついた…」
「母ちゃんが、あそこでみてる。」
「十二頭の木馬たちはチサを取り囲むようにぐるりと鼻面を並べて、ゆっくりゆっくり近づいてくる」
例えばこのような視線の感触は、
私たちの読みにどのような影響を与えているのか。
なぜ、このようなことが書かれているのか。
そういうことを考えることを通して、
ここでは作家がそうなるように計算したものですが、
ひとつひとつの描写が放射するもの、
そして、
私たちが世界に対して、
いろんな意味を感じる、そのあり方が、
「運命」のようなものを決めていく、
あるいは、変えていくことにつながる、
そんなことに気づく学びになるように思います。
(これは、「涙の贈り物」にも共通していると思います)
興味深い教材発掘、
ありがとうございました。