国語教育いろいろ

高校、大学の現場での議論のいろいろです

象は鼻が長い

昨日、
協議で言及があった
『象は鼻が長い』について少し補足します。
これは三上章という人の本のタイトルであり、
そこで取り上げられた有名な例文です。

昨日の授業の手順どおりやるなら、
⭕️文末にある「長い」に述語の印を入れる
⭕️何が長い?、何は長い?と問うことで主語を探す
ということになります。
ところが生徒は困ります。
「象は」もあるし、「鼻が」もある。
どっちなんですか? 先生!

文全体としては、
「象の鼻が長い」という事実を伝えてるように見えます。
だから、主語は「鼻が」やろね。
すると、生徒は、
「じゃあ、元の『象は』はなんなんですか?」
って言ってくるんじゃないかな?

三上はこう言うでしょう。
「象は」は主語ではない。「象について言えば」と話題を提示している。
三上は、日本語における主語の概念を否定します。
驚きましたか?
実際に日本語を知らない人のための日本語教育では主語という言葉、概念を使いません。
何々は、何々が、が主語だよ、
と教えても日本語が使えるようにならないからです。
だって、上の「象は」は主語ですか、
と聞かれても、
いいえ、と答えなくてはならず、
日本語を学ぶ生徒さんたちは、
ワケワカリマセーン!
ってなるからです。
日本語教育で使う文法は学校文法とはまったく違う体系を持ちます)

さて、話題提示の「は」。
これが必ずしも主語にならない、
その例はいろいろ思いつくでしょう。

今日はやめとくわ。

なんやね。この「は」は?(笑)

三上の論を借りると
象はーという出だしは、
「象ってどうよ?」という問いかけへの
応答として語り出されているのです。
象ってさあ、象はさあ、鼻が長いよね。
象は、体がめちゃくちゃでかいよね。

とりあえず私たちは、
何々は〜と語りだす。
その背後に問いかけがある。

(今日どうすんの?)
今日? 今日はさあ、やめとくわ。
今日は〜、散髪も行かなあかんし〜、天気も悪いから。

後の話題提示では、
理由が展開されてますね。
理由は、
(私が)散髪に行かなくてはならないこと。
(今日の)天気が悪いこと。
話題提示の「は」が、
問いへの応答をスタートさせてるのがわかります。

論述するときに主述を意識する重要性を少し発言しました。
正確には、日本語の構文意識です。
かかり受けの関係です。

日本語話者は、
とりあえず「は」で考え始めることが
身に染みついています。
メディアリテラシーについて論ぜよ、
と言われたら、
メディアリテラシーは〜」
と、とりあえず脳内発話する。
そして自問自答する。
それはいいのですが、
その過程の中で構文意識が見失われます。
メモやスマホなら推敲自在ですが、
試験のときは、もう、
メディアリテラシーは〜」
と書き始めてしまいます。
これをきちんとした構文の中で回収するには、
けっこうな力が必要です。
発話の場合も、同じ。

昨日の中一の主述の学びの中には、
日本語の特質への気づきや
その後の文章記述の実践力につながる
コアなものが含まれているな、
と改めて思います。


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(参考)
三上章「象は鼻が長い」
「ハ」に潜む他者からの問い
大澤真幸
 奇妙なタイトルをもつ本書は、市井の言語学者による日本語論の名著。ここで「主語」が否定される。ヨーロッパ語をモデルにすると、文の中核的要素は主語だと考えたくなるが、日本語にはそれは当てはまらない。三上章はこのことを証明する。
 日本文法において、主語の代わりに縦横無尽に活躍するのは、「ハ」という係助詞だ。「象ハ鼻ガ長イ」の「象ハ」は主語ではない。「象について言えば」と話題を提示しているのである。「X(エックス)ハ」の本務は提題である。
 「本務」と言うからには兼務がある。先の文の内容は、「象ノ鼻ガ長イこと」と言い換えられる。ここに、もとの文にはなかった「ノ」という助詞が顕(あらわ)れる。ということは、もとの文では「ハ」が「ノ」を代行しており、そのため「ノ」が隠されていたのだ、と三上は解釈する。「ハ」の兼務は、「ガノニヲ」といった助詞の代行である。
 本務と兼務では、呼応(どこに係るか)が異なる。「象ノ」は「鼻」という名詞に係っている。しかし、「象ハ」は文末まで勢いが及ぶ。呼応を誇張すれば「象ハ鼻ガ長イナア」となる。一般に兼務は短く厳密に係り、本務は大きく大まかに係る。
 兼務の係りが短いのは、事柄の論理的関係を示せば使命を終えるからだが、本務の係りはなぜ大まかで大きいのか。提題が本当は「Xハ?」という問いだからだ。問われている段階ではXがどうなるか未定なので、係りも大まかだ。そして問われた以上は、答える方は最後まで言い切らなくてはならないので、文末まで大きく係るのだ。「Xハ云々(うんぬん)」は自問自答である。
 以上の三上説から、日本語に伏在する言語感覚が見えてくる。自問自答というが、本来、問うのは他者である。日本語の文は、他者からの問いへの応答なのだ。ヨーロッパ語で主語が中心になる一因は、「主語の中の主語」である語る主体(英語のI〈アイ〉)がことばの源泉として特権化されていることにある。しかし日本語では、語る主体の前に問う他者がいる。=朝日新聞2021年6月5日掲載

https://book.asahi.com/article/14367259