国語教育いろいろ

高校、大学の現場での議論のいろいろです

文章は上手くなるのか

(学生さんからのある質問)一部略
私がとある大学の先生たちと話している時に
「学生の文章力が著しく低い。
論文指導するのも辛い」と言われました。
そういえば、先週の模擬授業で
今時の学生は本も新聞も読まないということを
同じグループになった人たちに教えてもらいました。
そりゃあ、活字に触れてなかったら
若い人の文章力は下がると思います。
しかし、たとえ、本や新聞をよく読んでいたとしても、その人が人に伝わる「上等な」文章を書けるのか?という話になると、それはそれで難しいと思います。
読み手に齟齬を生じさせないような文章が書けるのって、特殊スキルなんじゃないかと思うんです。論文を書き出すようになってからは特に思います。
私が高校生のころに
現代文の先生が授業中に
「もう君たちの文章は上手くならないよ。
ある程度は上手くなっても今のレベルから
ぐんと上手くなるなんてことは
よっぽどのことがない限り無理だろうね。
語彙力が増えたり、上手く見せる小手先の技術は身につけられても、根本の土台は変わらない。
小学六年生くらいで、ほとんど決まっちゃうんだよな、文章力って…」と話していたことがあります。
でも、自分が教員になったときに生徒に
「先生、私、文章が上手くなりたいんです。
どうしたらいいですか?」と聞かれて、
「文章力は小学校高学年でほとんど決まるから、諦めな!」
なんて言うわけにはいきません。
どういうふうに指導してあげるのが親切かつ効果的なんでしょうか?

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よい質問をありがとう。
多くの皆さんにも関心がある問いだろうと思います。
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上のお話の、
小6までで「文章力」が決まる、ということの根拠が私にはわかりません。
「文章力」の中身や「ぐんと上手くなる」ということが何を意味しているのかもよくわからないです。
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私は、まったくそんなことはない、と思います。
指導経験からも、長じて何らかの文章を書くことが仕事の中心にある人たちの多くの例からも(売文業ということに限りません。多くの仕事で何かを書きます)。
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「文章が書ける」というのはどういうことか。
「文章が上手くなりたい」という人がいたとしたら、
それは効果的に書く必要・目的があるからです。
しかしうまく行かない。
そのとき、上手く書きたい、という動機が生まれます。
指導ということで言えば、
漠然と「上手く」する方法があるというわけではなく、
その目的に合った文章の書き方を指導することになります。
それは可能です。
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例えば、高校段階を考えましょう。
高校入試のために作文・論文の練習をしてくる生徒は多いです。
その機会に、ふだん考えないようなテーマについて、普段使わないような言葉を使って書く経験をするわけです。
作文と論文では少し違いますが、構成を考えるレッスンも必要になる。
ところが、高校入試程度では時間的、字数的制約が大きすぎて、
実際には似たり寄ったりのワンパターンの答案が並びます。
塾などでは、ワンパターンでいいから、こういうふうに書け、などとも指導するようです。合格戦略からいうとしかたないのかもしれません。
慌てたのか、
中には論理がおかしくなっていたり、語彙選択が不適切だったりするものも混じります。

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そういう文章を見ていると、採点者は、
「最近の中学生は文章力がないな。スマホを眺めてるだけだからかな」
なんて感想を漏らすことになります。
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しかしほんとうはそうではありません。
中学生のからだの中にも
たくさんの切実な問題意識やたくさんの語彙がちゃんとありますが、
それらが与えられた問いに対応できるとは限りません。
私たちの仕事は、
そのマグマを、表現したいというじゅうぶんな動機に育て、
表現するに値するじゅうぶんな思考を導き、
適切な言葉の回路につなぐことを支援することです。
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国語教育は、最後は「書く」ことを目指すことになると思います。
「書く」のために、いろいろな活動を設計すべきです。
先にも書いたように、
「書く」にはさまざまな目的があります。
さまざまな形、様態があります。
国語教室ではじっくりと、いろんな筋肉を使う場を提供していく必要があります。
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高一なら、入試でガチガチになった筋肉をほぐすために
リハビリとしての「話す」「書く」から始める必要があります。
すなおに言葉を出すレッスンから始めるのです。
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高三になると、
こんどは入試の「小論文」や「志望動機」などの必要が出てくる生徒がいます。
数え切れないほどの人たちの「小論文対策」に付き合ってきましたが、
それぞれにほんとうにドラマチックな過程をたどります。
1つだけポイントを書いておくと、
「問われたことに対応しよう、書き方の型なるものを習得しよう」
という心の段階ではまったく書けなかった人が、
「ほんとうに自分が考えていることはこれです」
というものが持てる段階になったとき、
「開眼」が訪れます。
もう、ほんとに何度も目撃してきました。
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「指導」というのは、その「ほんとう」を目指す過程につきあうことです。
これはもうほとんどカウンセリングです。
「ほんとう」のことを言うとき、書くとき、
人は言葉の水脈に当たったかのように、その文章に文体と呼べるリズム、言語感覚が伴います。
だから、まずは「ほんとう」に突き当たる思考を練る過程が何よりだいじです。
噴き出したものを外に出し、さらに推敲を繰り返すことで、
思考は練り上げられます。
その過程で言葉も練り上げられます。
言葉で思考するからです。
その経験を繰り返すことに伴走する。
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論文が書けるようになりたい、

企画書を効果的に書きたい、
とでは少し違う。
小説を上手く書きたい、はもっと違う。
読み手が期待するものも違う。
でも、どんなジャンルであれ、
そこに「ほんとう」(伝わってほしいことの核心)が含まれていないと、
それは文章ではありません。
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「ほんとう」というのを大げさに捉えすぎないように。
正しい情報、だってりっぱな「ほんとう」です。
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●下のリンクに、今言ったような過程(言葉の出るからだに→自分の考えを言葉に→自分と社会を結ぶ考えを言葉に)を一年かけて試みた例を示します。
私の実践例です。生徒氏名は省いてあります。
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決して、文章がうまい子が受講していたわけではありません。
みんな、ほんとうに最初はグダグダ(笑)。
それが、
最後の作品では、おそらく人生で初めての長さの文章に挑戦しました。
別の年度でも何度も担当しましたが、
いつでもそうです。
高校生の進化、おそるべし!です。
ぜひ、過程全体を見てほしいなと思います。
(国語表現2012)
http://masuihi.g1.xrea.com//kokuhyou2012/kokuhyou2012.htm

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大学生のみなさんへ。
「文章が上手くなる」爆発期は、
二十歳ごろから三十代にかけてです。
この期間を懸命に生きる中で、私たちは、専門性を身につけ、
自分と世界の折り合いをつけていくからです。
この時期は、学校からも離陸し、
自己研鑽が必要な時期ですが、
ここで、「ほんとう」のことを書くことが書くことだ、
ということを実践し続ければ、
あらゆることに通じる「ほんとう」の基礎が完成するでしょう。
「三十にして立つ」ですね。
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私たちの国語教室は、
「ほんとう」のことを書くことが書くことだ、
という感覚を次世代の身体に刻むこと、
彼らが大学、社会へと進んだとき、
その感覚がよみがえるように、
しっかり刻むこと、
それを仕事とするのです。