国語教育いろいろ

高校、大学の現場での議論のいろいろです

少年の日の思い出

少年の日の思い出

前回の「百科事典少女」の授業が、「一読法」的な展開だったとしたら、
今回の「少年の日の思い出」は、「三読法」の初読段階を扱った授業と言えるかもしれません。

「三読法」は、国語の授業で典型的に使われている指導過程です。

「通読・精読・味読、
叙述・構成・主題、
一次読み・二次読み・三次読みなど、
種々の呼称がある。
対して、文章の展開にしたがい、
部分からはじめて全体を把握していく方法を
「一読総合法」という。」

今回は、予習というゼロ次読みを経て、
通読、人物関係に焦点を当てた一次読みをした、ということになります。

授業の構成は、
基本的に「?」が「!」に転じていく過程になるように考えます。

「三読法」が効果的に展開する理想のあり方は、
初読時の、各自のいわば「いいかげんな読み」、
「?」も多く含み、
読み誤り、
読み飛ばしも含み、
解像度低く脳内に描かれた世界が、
鮮明で躍動する世界に(4Kみたいな世界に!(笑))
転じていくというダイナミズムにあります。

「一読法」が時間軸(テキストの進行軸)を利用して、
「?」をつくりだし、
「!」を発見していく過程だとすれば、
(なんというか、音楽的・映画的)
「三読法」は、
スケッチから構成に進み、
着色と仕上げに至る、
平面のレイヤー重ね塗り、
いわば絵画創作過程に似た指導過程になります。

……と書きましたが、
テキストは本質的にライン(時間的)であると同時に面(空間的)なものです。
私たちは、
時間的に読みながら、
面(空間・場)を次々と脳内につくりだしているわけです。

読書は予期しつつ読む点で一読法的であり、
かつ同時に、
テキスト空間を自由に行ったり来たりする点で
三読法的です。

どちらでやろうが、
最終的には同じような作業をすることになります。

しかし、三読法の問題はいわゆる「ネタバレ」を抱えて
授業を展開しなければならない点です。

テキストが比較的長く、
先の展開、特にラストにストーリー的な焦点がある作品では、
「ネタバレ」を抱えて授業を持ちこたえていくのは、
なかなかなんぎです。

高校教材なら、
「こころ」や「舞姫」がそれに当たるでしょう。

「?」をつくりだし、
「!」を発見していく過程をどうすれば作り出せるか。
この観点をよく意識して、
授業での読み進め方を決定することになります。

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小説世界の冒頭の扱いについては、
まずは、
「時・場所・人・状況・語り手」という〈概念的な事項〉の確認が必要です。
今回は、人物(とその関係)について扱ったのでした。
(しかし人物の心情や関係はもちろん変化するので、
物語全体を最初に一気に図面化することについては、
いろんな意見が出ていましたね)

そして、もうひとつ、文学作品の生命線である〈形象〉を脳内に起動させることが何より重要です。
その世界が画面に映り、匂い立ち、音が鳴り、動き出す。
人々の声が響く。

私は、
〈概念〉の確認と〈形象〉の読み取りが同時に始まるべきだと思います。
冒頭は、それが可能であるように、
見事な世界が造形されています。
そこをじっくり味わうところから入りたい気がします。

「昼間の明るさは消えうせようとしていた。
窓の外には、色あせた湖が、
丘の多い岸に鋭く縁取られて、遠くかなたまで広がっていた。」

「最初の箱をあけてみて初めて、
もうすっかり暗くなっているのに気づき、
私はランプを取ってマッチを擦った。
すると、たちまち外の景色は闇に沈んでしまい、
窓いっぱいに不透明な青い夜色に閉ざされてしまった。」

このように世界が閉じていきます。
光が灯ることで
闇が世界を隔てます。
そして――

「私のチョウは、
明るいランプの光を受けて、
箱の中から、きらびやかに光り輝いた。」

世界は、蝶の世界に転換します。
蝶、私、友人だけの世界。
それだけが、
見える。

しかし――――。

「彼はランプのほやの上でたばこに火をつけ、緑色のかさをランプに載せた。
すると、私たちの顔は、快い薄暗がりの中に沈んだ。
彼が開いた窓の縁に腰掛けると、
彼の姿は、外の闇からほとんど見分けがつかなかった。」

そして、彼の姿も闇に消えます。

「外では、カエルが遠くから甲高く、闇一面に鳴いていた。」

闇から届く声のように、
回想が始まります。
完全な暗転。

彼の顔は見えず、
目の色も見えず、
そして、
彼の心も見えないままなのです。

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冒頭のこの味わいをていねいに読んでおくことは、
やがて回想が終わり、
この場所へ帰って来るときのために必要な準備です。

「回想」からは帰ってこなければならない。

これは、
わたしたちが「待ち伏せ」や「俘虜記」から学んだことです。

「少年の日の思い出」は、
テキストとしては帰ってきません。
しかし、授業としては、読者としては帰ってこなければならない。
帰ってこなければ、
読書行為は完了しません。

時を経て、
「僕」はあの事件をどのように捉えているのか。
これが最も大きな「?」であるように思います。

そして、
帰る、というのは、
読者一人一人に帰ることも意味します。
というより、
この物語は、
「あなたの経験した〈事件〉をあなたは今どのように捉えているのか?」
という問いを残すために書かれているからです。

私たちは読んで、
私たちの中に存在し、
もしかしたら、
もう忘れていたかもしれない〈傷〉に
そっと「ランプ」が灯されるのを感じます。

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又吉直樹さんの「「少年の日の思い出」を読む」を
紹介しておきます。
参考になります。

https://tb.sanseido-publ.co.jp/wp-sanseido/wp-content/uploads/2019/08/km_guide_4.pdf
「少年の日の思い出」を読む――又吉直樹