国語教育いろいろ

高校、大学の現場での議論のいろいろです

文法――発見的・体験的方法

「方法はもっと緩やかな体験的なものを採用するのがいいのではないでしょうか。」

というご意見を補足し、

実際に行われている方法を

少し紹介します。

 

「国文法」を発見したのは、

江戸時代の国学者たちです。

彼らは、彼らにとってもすでに「古文」であったテキストを分析し、

そこに法則を見いだしたわけです。

その法則は一覧表になっていて、

とても便利です。

 

まずその法則を学び、

テキストに適用していくというやり方は、

誰かが発見した数学の定理や

化学の元素表をまず学び、

それを実際の現象に適用していくというやり方と同じです。

 

それは確かに効率的な面があるのですが、

そう思い、「促成栽培」を強いたとき、

「高一に上がってきたときには、

『古典、解らない』と言って疲弊」するといった事態を招く恐れが高い。(中高一貫で、中学で文法をガチガチに「先取り学習」している学校の例として話題に出ました)

というか、それが教室の現実です。

 

なぜか?

だって、おもしろくないもん。

なんのために、それを暗誦しているのか、

わけわかんないもん。

 

法則を発見した人たちは、

まず現象を見た。

そして、そこに謎を感じ、問いを立てた。

その後、そこに「しくみ」を見いだしたわけです。

 

今日の授業者は、「古文、わかんない」という謎が、

「助動詞」などくりかえし現れる言葉の法則(文法)を知ることで、

「あ! そうか!」とわかったという体験をしたと言っていましたね。

国学者たちも、

「古文、わかんない」という謎の中から、

「あ、そうか!」と法則を発見した。

同じことです。

 

ここで、しかし、こういうことが起きます。

「これでイッパツ解決」ツールによって開眼した人は、

〈親切心から〉、

次世代にもそのツールを手渡したくなる。

先生たちも、

子どもたちに早くそのツールを手渡してやろうとする。

(就学前から英語やプログラミングの習い事をさせようとする〈親心〉も同じ)

そして、その早すぎる肥料は、

彼らの根を疲れさせる。

 

「もっと緩やかな体験的方法」というのは、

授業者の体験のように

一定の量の

「わかったり、わからなかったり、なんとなくわかったり」

という経験を前提として、

先生がしくみつつ、

「あ、そうなってるのか!」の体験を味わわせる方法です。

 

中学での古典への接し方は、

まず現代語を通して内容を楽しむこと、

そして、原文の音色を楽しむこと、

さらに少しツッコンで、

言葉の違いに注目すること。

今も昔の言葉が生きていることに気づくこと。

(言語共同体が歴史的な軸にも展開していることになんとなく気づくこと)

大村はまは、原文の横にところどころ傍訳をつけたテキストを作り、

原文を読んでいるのだけれど、

同時に現代文を読んでいるのと同じ状態になるようにしていました。

私は、高三で「舞姫」を読むとき、その方法を使っています。)

 

例文、ではなく、

意味のある作品、を読みつつ、

「あ、そうなってるのか!」を体験させて

文法への意識を育もうとする方法は、

よくいわれる

「対話的で、主体的で、深い学び」でもある。

ここには、

現実の現象を観察し、

どうなってるんだ?

と問いかけ、分析する態度を養うことにつながるものがあるからです。

(今、自分や他者がしゃべったり、

書いたりしている言葉への意識にもつながると思います)

 

  • 高一で「文法」をやるタイミングでよく扱われる

「児のそら寝」があります。

例えば、ここで、「む」を学びます。

ここで、

「はい、文法の本を……」としないで、

まず、テキストにぶつかる。

 

僧たち「いざ、かいもちひせ。」と言ひけり。

なんやろ。これ?

わあわあ言う。

「かいもちひ」はぼたもちだよ。

ぜったい誰かが、

「ぼたもち、作ろ、ってことじゃない?」

っていいます。

先生は、「そのとおり!」という。

「せむ」=「作ろう」が取り出される。

 

ずーっと読んでいく。

わからないところは、

現代語訳をどんどん教える。

いろんな「む」が出てきます。

「いま一声呼ばれていらへむ」

から

「いらへむ」=「答えよう」。

「~しよう」は古文ではどういうんだろ?

「あ、そうか、その意味を持っているのは、

この「む」じゃない?」

 

こういう過程を(すべてにわたってやるのは無理ですが)

一部導入しています。

そうすることで、「む」に生きた感覚、生きた力が宿ります。

 

もう一歩、

「む」を生きたものにするためによくやるのは、

古文作文。

○さんのいう「紫式部との対話」を可能にするわけです。

 

今日クラブ行こう。

今日クラブ行かむ。

「先生、

今日クラブ行かん、って

私らが言うときは

『行けへん』っていうことやのに、

古文では、『行こう』になるんやね。」

「そうやねん。まるきり逆やね。」

「へえー。そうなんや!」

……という感じ。

自分ならどうやるか、

ちょっと考えてみて下さい。

 

僧たち、宵のつれづれに、

「いざ、かいもちひせ。」と言ひけるを、

この児、心よせに聞きけり。

さりとて、

し出ださを待ちて、寝ざらも、

わろかりなと思ひて、

片方に寄りて、寝たるよしにて、

出で来るを待ちけるに、

すでに、し出だしたるさまにて、

ひしめき合ひたり。

この児、

さだめておどろかさずらむと待ちゐたるに、

僧の、

「もの申しさぶらは。おどろかせたまへ。」

と言ふを、

うれしとは思へども、

ただ一度にいらへも、

待ちけるかともぞ思ふとて、

いま一声呼ばれていらへと、

念じて寝たるほどに……。

文法は最小限に

 忘れたら、表を見ればよし。