国語教育いろいろ

高校、大学の現場での議論のいろいろです

羅生門――「なぜ」と過程

羅生門――「なぜ」と過程

 

次のような質問がありました。

「授業の最後におっしゃっていた「なぜそうなるの?」の発問に関してです。これは、その考えに至った過程を一つずつ解きほぐすように問うていく、という認識で間違いないでしょうか?」

 

その通りです。

私たちは安易に「なぜ?」と問うてしまうのですが、

「なぜ?」の受け取り方は乱反射します

たとえば「恐怖が消えていったのはなぜ?」

と生徒に尋ね、

生徒が「そんなことには怖がらない人だったから。

だって、死体の捨て場だって怖くない人だもん」と答えたら、

どう反応しますか?

これは間違ってますか?

そうも言える?

しかし、想定していた答えとは違ってますよね。

どうしますか?

 

たとえば、この生徒は、「怖がる人」「怖がらない人」という区別を立て、

下人は怖がらない人だから、もう怖くないんだ、と答えたわけです。

そういえば、どうせ死体ばかりだ、と考えてたしね。

そうさかのぼり、根拠を見つけています。

 

もっとさかのぼる生徒もいるかもしれません。

「なぜ、怖がらないのかというと、……そんな時代だったからじゃないかな」

 

下人の恐怖への耐性や時代状況、これらは、

すべて「恐怖が消えた」という現象に至る因果関係に関係しています。

だから、むげに間違ってるとはいえないわけです。

むしろ、下人が、100パーセントの恐怖に駆られて逃げ出したりせず、

40パーセントの好奇心に引き留められて、

状況を凝視し続けたことの根拠を指摘しているとも言えます。

 

ただ、聞きたかったこと、読み取りたかったこととは違う。

どうするか。

 

教師がここで聞きたかったことは、

変化の直接的な要因ですね。

 

せっかくですので、本文に沿って見ておきたいと思います。

時間のあるときに、ゆっくりスクロールして読んでみてください。

 

作業の基本は、どこを見る(読む)かを明確にすること、です。

具体的には、ここなら彼が「見ているもの」と彼の「心の中」の描写を分けること。

 

A 下人の目は、そのとき、初めて,その死骸の中にうずくまっている人間を見た。檜皮色の着物を着た、背の低い、やせた、白髪頭の、猿のような老婆である。その老婆は、右の手に火をともした松の木切れを持って、その死骸の一つの顔をのぞき込むように眺めていた。髪の毛の長いところをみると、たぶん女の死骸であろう

 

ここには、「見ているもの」が映し出されます。「たぶん女の死骸であろう」は語り手の推定と下人の推定が重なっているような表現です。

 

B 下人は、六分の恐怖と四分の好奇心とに動かされて、暫時は息をするのさえ忘れていた 。旧記の記者の語を借りれば、「頭身の毛も太る」ように感じたのである。

 

ここは内面の描写。身動きできない緊張感が描かれています。

 

C すると、老婆は、松の木切れを、床板の間に挿して、それから、今まで眺めていた死骸の首に両手をかけると、ちょうど、猿の親が猿の子の虱を取るように、その長い髪の毛を一本ずつ抜き始めた。髪は手に従って抜けるらしい

 

再び「見ているもの」が映ります。老婆のしていることがだんだんわかってきます。

 

D その髪の毛が、一本ずつ抜けるのに従って、下人の心からは、恐怖が少しずつ消えていった。そうして、それと同時に、この老婆に対する激しい憎悪が、少しずつ動いてきた

 

 問いたかった変化は、「B」と「D」の間の変化です。

 それなら、「B」と「D」の間に何があったのかに注目させればいい。

 これなら、全員が「C」に注目することになるでしょう。

 

「恐怖が少しずつ消えていく」現象に伴っているのは、「髪の毛が一本ずつ抜けるのを見る」ということです。

これは、「六分の恐怖と四分の好奇心」に支配されていたAやBの段階にはなかったことです。

私たちは、少なくとも、

「髪の毛が一本ずつ抜けるのを見る」ことに伴って「恐怖が少しずつ消えていった」という過程を確認することができます。

 

これを見つけるための問いは、

「なぜ(Why)」というより、

むしろ、「どのように(How)」「何を見ることによって(What)」、そうなったのか、

と尋ねることになるでしょう。

 

「髪の毛が一本ずつ抜けるのを見た」ことは、

最初の「予想外の」「得体の知れない」ものを見たときの緊張感とは異なっています。

恐怖が消えていくことから、

私たちは彼のからだの緊張の緩みを感じとり、

ここに、

「得体の知れないもの」が少なくとも「髪の毛を抜いている」と言語化できる理解に至ったことを確認します。

 

正体がわかればこわくない。

(事情はわからないにせよ)

 

これは私たちの現実の体験から想像できることです。

 

そして、この隙間に「憎悪」という新たな感情が湧いてきます。

 

これらが「なぜ」ではなく、

その過程を「どのように」という形で追うことの例です。

 

見えているものが変わる。

だれかのせりふを聞く。

時間が経つ。

変化を促す要因はいろいろありますが、

注意深く読めば、

それらは読み取れる形で本文に書き込まれています。

 

それを探れるように

授業をデザインするとよいと思います。