国語教育いろいろ

高校、大学の現場での議論のいろいろです

2022年春学期抜粋

・私たちがなぜ国語の教科書で戦争の話を勉強しているのか理解した気がします。国語を勉強するのは、言葉に触れ、楽しむだけでなく、日本を知り、世界を知り、その中にある多くの大切なことを、教科書を通じて教えてもらうことができる。

・私は本を読むのが苦手で、なぜ本を読み深める必要があるのか全く理解できなかったのですが、本を読み深めるからこそ、新たな発見にたどり着くことができるのだなと改めて感じました。新たな発見に劣等感や人と違うなど考える必要はない。

・このクラスで授業を受けてきて、このクラスで模擬授業をやって、討議をしたいと本当に心から思うくらい、とても刺激的な授業でした。「待ち伏せ」と「俘虜記」のツッコミ読みでは、授業についていくのに必死でしたが、脳が面白いという刺激で溢れていました。特に、自分の頭の中にある、もやもやをうまく言語化してくれたり、自分の読み方が固定化されていたと思ったり、ただ1人で教材を読むだけではあり得ない刺激がありました。

・何よりも、授業後に毎回議論しながら帰宅したことが、とても印象に残っています。土曜日の5限という時間帯は、正直電車に乗るのが億劫でした。ですが、教室に入れば充実感でいっぱいになり、来てよかったと心から思いました。教材がクラス共通のコミュニケーションツールになることを体感し、嬉しく思いました。この経験は、教員を目指す上で重要なものであると考えます。今では、なぜこれまでにこのような機会がなかったのだろうかと疑問にさえ感じます。


・特に、授業案を考えるために「待ち伏せ」のテキストを読み返してみたが、ツッコミの箇所だけで発問にできそうな要素が沢山あるということに改めて気づかされ、今後教壇に立った際には教材研究をどのように進めていけばいいのかということに関して非常に参考になったと思う。

・何を目標にしてそれを達成させるためにこの作品を教材とする、という意識が大切であると改めて思います。『待ち伏せ』をやろう、と思うから、いっぱいいっぱいになるのだと思います。深く教材研究をするとたくさん詰め込んでしまいたくなってしまいますが、あくまでも、教材としての可能性を広げるための過程であること、生徒の力、状況にあわせて作品を教材にすること、これを念頭において、これからも教材研究を個人的に、また、ほかの学生と大学生の間にたくさんしたいと思いました。そうすることで、いざ教員となったときのまずはじめの引き出しをたくさん作っておけたらいいなと思います。

・生徒が主体になる授業というのは口ではよく言っていたけれど、こういうものなのかもしれないと思いました。意見はあっても、私はそれをまとめるのに時間がかかるため、直ぐに発言するということは他の人よりも苦手でしたが、クラスティングのおかげで自分の考をまとめてから発言することができたのでとてもありがたかったです。そして、自分の言葉にきちんとコメントが返ってくるので、読んでくださっているのがとても支えになりました。

・今まで受けた授業を正しいとせず、これからの教育を考えていこうとする姿勢に驚きと感謝がありました。受験で良い点を取れるようにすることが良い国語教育なのだろうかという気持ちがずっとあり、それだけではないのだとこの授業で感じ、とても嬉しかったです。

・特に重視したいのが古典時代における価値観の理解である。『奥の細道』であればどのようなことに風雅を感じていたのか、どのような景色を見て歌を詠んだのか、道のりのなかでどのような状況にあったのか、このような価値観や感覚への研究を深め、現代にその価値観を蘇らせていくことで、生徒たちが古典と現代作品を同時に考えていけるようになるのが理想ではないだろうか。

・自分一人で教材研究したのでは、15回の授業を終えた今のような考えには到底至れない。みんなの発言、みんなとした議論がとても心地よかった。ほかの教職の授業を受けているのでは感じられない、「こんなに熱心に国語、国語教育について考える学生がいるんだ」と知れたことが嬉しい。また現職の教員の方もいて、実際に生徒と触れている立場からの指摘は非常に参考になる上に、外部のイベントを知ることもでき、参加した見返りの大きい授業だった。

・模擬授業をはじめ教材研究の時間には毎回新鮮な衝撃を受け、学校教師の授業というものの高尚さにさらに気づかされました。1つの文章をツッコミ読みするのに授業時間をどれほど費やしても足りないほど深く考えることができることに国語の奥深さも感じました。模擬授業を受けていて、とても細やかな教師側の配慮に気づくことがあります。授業内容だけでなく、授業の進行において生徒が学習以外に頭を使わないようによくできているなと思いました。この授業を受けるまでは自分はきっと授業をするのが得意だと思っていました。しかしこの授業では授業案や教材研究、話し方など学ばされることが多く自分の作りたい授業というものを見つめ直すきっかけになりました。

・たくさんの時間をかけて、何人もの人と議論を繰り返すことで今までで一番、教材の隅々まで考察できたと実感した。しかし、内容を読み深めるだけでは授業で作れず、国語科としてどこに視点を置くべきか、教育現場としてどこに視点を置くべきかを読みながら考えなければならないということを改めて理解した。

・……それに感化され、私も毎週提出するクラスティングに気合いが入り、よりよい表現はないか、この言葉たちで私の考えていることは全て伝わっているのだろうか、と産みの苦しみに毎週当たっていた。しかしこの自分の有限の語彙から無限の思考を広げる過程の時間は、苦しくもありまた楽しくもあった。来季もまた活発な議論が交わされると思うと今から楽しみで仕方がない。 

・生まれた国が日本で、幸運なことに今まで戦争には巻き込まれてこなかったからこそ、戦争に関する話題は自分とは切り離して捉えてしまう傾向が、私含め現代を生きる我々の中にはあるのではないだろうか。 
 その上で「待ち伏せ」の文章を見ると、ベトナム戦争に従軍した一兵士の苦しみがひしひしと伝わってくる。大国アメリカの兵士であるというプレッシャーの中で従軍し、敵を見れば条件反射的に身体が敵を殲滅するように動き、仲間からは「正当な殺し」という、従軍する者にしか分からない思想で殺しを正当化される非日常、というのが戦争である。この理解は私がこの『待ち伏せ』を読み、様々な討議の末に導き出した戦争の悲惨さである。ただ「戦争は沢山の人が悲しむことだからいけないことだ」のような浅い理解で戦争教材を終わらせたくはない……。

・今学期の授業をとおして、教材研究の奥の深さを感じた。20人ほどで1つの教材に対してあれほど白熱した議論になるものなのかと、改めて感じた。いままで、文章を読んでいるときの自分の読みがどれほど浅いものなのか思い知った。 一人一人の模擬授業を見て、斬新な発想や面白い考えが出てきて、インスピレーションを刺激された。秋学期の模擬授業では、授業目標を達成できるよう、教材研究に時間をかけようと思った。

・……次に、戦争のリアルを作り出すフィクション小説としての捉え方である。「待ち伏せ」が収録されている『本当の戦争の話をしよう』の別作品において、ティムオブライエンの戦争作品はフィクションだと語るメタフィクション的作品が存在する。その作品との関連から、本作を「本当の戦争の話」をするためにリアルを作り出すフィクション作品として捉えるのである。学習者はこの作品を通して、《リアリティーとフィクション》、《真実と事実》といったことについて考えることになるだろう。こういったフィクション性を考えさせる作品はあまり授業では取り扱わないので、教材として独自の価値を持つ小説であると個人的には考える。

・帰りの電車まで続く意見交流を含め、さほど重要ではないが、私には私の視点があることにも気づけた。……他の人を参考に、自身の力を磨きながらも私特有の視点を活用した授業を構築したいと強く思う。 土曜日の夕方という時間に集まった、同じ教室で学ぶ人たちとの縁を活かせる学びを秋学期もしていきたい。

・○○さんのクラスティング「私たちもまた戦争によってもうけられた『子ども(ティム)』であり、キャスリーンに伝えるべき立場になる『大人』になろうとしているのではないかと思います」が印象に残っています。クラスティングと重複しますが、教師になった際には自分が講義で体験したことを教室で再現し、伝えていく役目を担う、という自覚を持つことができたのが今回の教材研究から得た収穫でした。

・文学と論理は切り離せないものだと思います。文学を読み味わうとき、私たちは意図的に制限された情報の中から明示されていない答えを導き出していると思います。ここに論理があるのだと考えます。『百科事典少女』を扱ってくださった○○さんの、予想をする、という模擬授業を通して「文学には文学の論理が含まれていること」は実感しました。

・古典は全く知らない文字の羅列ではなく、今の私達に流れるものであり、それを学ぶことは私たちを知ることでもあると考えます。『待ち伏せ』や『俘虜記』から間接的に、人は語る生き物なのだということを知りました。古典もその思いによって伝わってきたものだと考えます。伝承されてきた理由、また価値について理解し、また後世へ伝えていくことが求められているのだと思います。現代文とはまた違う、古典でしか磨かれない感性もあると考えます。感性を磨くことにも繋がっている科目ではないでしょうか。

・国語を通して、あるいは説明文、小説、韻文、古典を通して、何を学んでほしいのか、何を伝えなければならないのか、この問いへの答えが疎かになった時、それは不必要なものと見なされ、教科書から消えていってしまうのではないかと思います。国語教師を目指すのならば、私たちはこの問いに向き合い続けなければならない。授業を通して必要性を訴えつづけなければならない。これが模擬授業を受けながら、見つけた課題です。

・今回は旅というテーマと共にこの序文を扱いたいと考えた。日本は近年新型コロナウイルスの流行を理由に外出や旅行を思うように出来ていない。旅というのは松尾芭蕉にとってどういうものであったかを捉えさせ、さらにこれを読んで旅に関してどういう考えを持ったのか。また新型コロナウイルスの流行が終息した際には、どこにどういう目的で旅に出てみたいのかなどを自分で考え、グループで討論しながら考えることで、現代の若者の引きこもり率や、新型コロナウイルスという非常に大きな現代の問題と関連付けて授業を構成することができると考える。

・この授業の場で様々な要素が詰まった授業を受けることができた。「予想する」「絵を使う」など教え方の多様性を学んだ。たとえこれが同じ教材だったとしても授業方式が重複することはなかったはずである。そう考えると、それぞれの人の国語観が詰まった授業であり、興味深いものであった。自分が授業をする際も自分の国語観をいい意味で反映し、自分にしかできない授業を作り上げたいと感じた。

・……その時、他の受講生の方が私の意見を取り上げて下さり、自分が考えていた時よりも進化したのを感じました。これは私の意見に限らず、議論を進めていく中で常に感じており、秋学期もそのような授業に参加できることが嬉しいです。