「コインは長方形だ」への違和感があんなにあるとは思いませんでした。
「コインには視角によっては長方形にも見えるよね」に同意してもらうことが、議論の出発点になってるのですが、そこでつまずく
可能性があるということがわかりました。
導入の事例として、「あ、そうか!」という実感を持たせにくいのでは?という問題意識なのかな。
しかし、もし、自分の実感では「コインは長方形だ」といわれてもピンと来ない、という地点から一歩も動こうとしないとすると、それは、書き手のいおうとしていることを理解することの拒否にすぎません。
そういう生徒がいたらどうするか。いそうですが。
ここは、しっかり、教材研究しておく必要がある箇所だと思いま
した。
「日常の認識」と筆者のいう「論理」の関係をよく理解しておく必要があります。
この文章は、そもそも「コインは長方形だ」という文への直観的な違和感(「こういうと、なぜか、まことに異様な発言をしているような気がする」)が大前提になっています。
この文は、レトリックを使った文です。
どこが?
「日常の認識」「常識的な見方」を破ろうとするものだから。
よくある表現じゃないからです。
わざと「え?」って、思わせようとしている。
反語とか比喩とか逆説とか、相手を一瞬「え?」ってならせることで、より「あ、そうか」と説得する力を増すテクニックがあります。
それらがレトリックです。
直観的で、感覚的で、常識的で、あんまり深く考えない、という認識態度が、「論理」
的にひっくり返される。「あ。そんな見方もあるよな」と思わされたとき、人は説得されます。
さて、「コインが長方形に見える」というのは、「投影図」の論理を利用したものです。中学一年生の数学で習うようですね。
「投影図とは,立体をある方向から見て平面に表した図です。投影図のうち,特に立体を真上から見た図を平面図といいます。」
https://www.try-it.jp/keyword_articles/12/
横から見た(立面図)のと、真上から見たの(平面図)。この二つから立体の実体がわかるというわけです。
中学数学できちんと概念規定がなされています。
コインは、この範疇で言えば、円柱ですね。立面図の高さが底面の直径に比べて、極端に短い(薄い)けれど。
この投影図という、立体についての数学的、論理的な捉え方が、もっと複雑に発展して、建築物の設計図とか、それをコンピュータで三次元的に表現するとか、さらに3Dブリンタとか、さまざまに応用されていくわけです。
コインでもなんでも、立体はコンピュータが処理できるような数値的データの集合に変換できる。
こういう捉え方は、「日常的」ではありません(大工とか機械職人とか科学者にとってはたぶん日常的でしょうが)。
遠い天体を解像度の低い望遠鏡で捉えた映像を見たとき、あるときそれは棒状に見え、あるときは三角形に見え、あるときは楕円に見え、なんてことがありますが、それらを総合して矛盾なく説明できる天体の形状を推定する、なんてことを学者はやっていることでしょう。
こっちから見たら、女神に見えるけど、こっちから見たら猛獣に見える、なんていう前衛彫刻を作る芸術家もいるでしょう。
「コイン」の例で筆者が意図したのは、こういう例の範囲にある内容です。つまり、誰が見ても、その目で見れば、そう見えるとしかいいようがない例、として取り上げています。コインは分類するなら、数学的には「円柱」に入れるしかないので、その立面は(細長いけど)長方形でしかありえません。
「百円玉は円形だ。百円玉は長方形だ。という二つの文の、論理的かつ実証的な構成は、ほとんど等しい。どちらも省略的で、どちらも一面的である。」
というのは中1の数学の言葉で言えば、
「百円玉は円形だ。百円玉は長方形だ。この二つの文はどちらも、実際の百円玉から作成した投影図と矛盾はない。前者は平面図で、後者は立面図として見た形である。」
ということに過ぎません。中1以上の人なら(?)、「そうです」と認めるしかない事実です。
これは、「価値観」といった話とは別のことです。
現代の日本でもインドでもエチオピアでも古代エジプトでも、投影図はこうなります。価値観や伝統や宗教に関係なく。
(ついでにいうと、立体を回転させれば、投影図はもっとさまざまな〈顔〉を見せます。これも「価値観」とは関係ありません)
コインが、薄い円盤で、重くなく、手のひらで転がせられる、金属製のもの、という感覚は、手のひらが健常な人間にとっての「日常の認識」です。手のひらの中でその全体像が捉えられる。扱いやすく、すぐ飲み物を買ったりできる便利なもの。
しかし実は「コインは命に関わる」ものなのです。
というと「え?」ってなりますね。
例えば、蟻にとってはそうではない。コインの下敷きになったら命に関わります。乳幼児にとっては、飲み込んだらえらいこっちゃ。
視点が変わると、認識が変わります。これらも価値観とか道徳とは関係ない現実です。
ここで重要なのは、私たちは、その生活の中で、いろいろなことの一面にしか触れられないという限界をもっているということです。その環境に適応するには、その一面が重要なので、そう見ることには当面の妥当性があります。
しかしそれだけでは限界が来る。
人間は地面は基本的に平たいという世界に生きているけれど、蟻は違う。人間は水は流れるもの、形が自在に変わるものという世界に生きているけれど、蟻にとっては粘性の高い、飲み込まれたら死ぬかもしれない塊。
災害が起きたとき、私たちも蟻の視点を理解するでしょう。
しかし災害が起きる前に、蟻の視点から世界を記述し、世界の別の面に気づいておくことが人間にはできます。
スペースシャトルの視点から地球を眺め、自分たちがどんな惑星に住んでいるのか、それが閉じた、奇跡的な生態系の世界であることに気づくこともできます。
コインの例は、そういう視点転換とそれを文で記述することの例として、授業の中でしっかり位置づけたいところです。
そうすることで
「レトリックとはそのように多角的に考え、かつ、多角的な言葉によって表現してみることである。」
という最後の結論につながることができます。
もう一度言いますが、
コインの例は、「私には共感できないところがあるけれど、むげに排除しないで、いろんな価値観を受容しましょう」という話ではない、という点に注目してください。
「肝心なのは《思いやり》だ、といってもいい。ただし、思いやりを、心情的なものとばかり考えてはまずい。もっと認識的な思いやりである。」