国語教育いろいろ

高校、大学の現場での議論のいろいろです

百科事典少女

テキストの一部を空白にしたり、

順序を入れ替えたりして

原形を推定するという方法は、

授業の手法として存在します。

 

問題はその意図と効果。

それによって、

方法の細部が設定されます。

 

「百科事典少女」の続きを予想する。

 

このとき目指されるべきなのは、

物語がせき止められる以前の語りを

詳細に読み直すということだと思います。

 

せき止められるまでの流れをよく観察することによって、

その後を想定することができるか。

 

もし、それが可能だとしたら、

テキストには、

つねに「その後」を示唆する何かが書き込まれているということになります。

また、授業としては、

そうであることが前提となる。

 

小説は、作者が創作しているのですから、

いわばどうにでも話を作れる。

登場人物が突然亡くなったり、

突然恋人を作ったり、

突然宇宙人だったということがわかったり(笑)、

なんでも可能です。

 

……でもそれはほんとうでしょうか。

 

白紙の状態では確かに可能です。

しかし、

テキストという現実が既に進行してしまっている場合、

ほんとうに作者はどうにでも物語を作れるのでしょうか。

 

そんなことはない。

作者は自分が作りだした世界――テキストに一定の拘束を受けながら、

続きを書かざるを得ない。

 

さらにもう一歩踏み込めば、

作品の世界は、

ノイズに満ちた現実の世界とは違って、

「必要なことしか書かれていない」世界です。

 

私たちがツッコミ読みで、

片言隻語にも意味を見いだそうとし、

見いだせたのは、

作品世界が隅々まで、ある意図によって支配されているという前提があるからです。

 

(文学と論理を分け、

文学には論理がないかのような考えがあるとしたら、

それはまったくの的外れです。

作品世界が成立するのは、

そこに文学としての「論理」が貫かれているからです。)

 

私は文芸部の顧問もしていますが、

まだ書き慣れていない生徒の作品に

作品世界の整合性の甘さ、ちぐはぐさを感じることがあります。

彼らには作品世界をコントロールする力がまだない。

 

小川洋子にはその力があります。

というより、その言葉の選択が、

物語の冒頭から変化を経て終盤、結末に至るまで、

有機的につながっているという前提を

読者に共有させる力がある。

 

もちろん小川洋子だけでなく、力ある作家にはそれがある。

あるから作家なのです。

 

何気なく読んでいた読者に違和感が生まれても、

読者は立ち止まって、その〈意味〉を考えてくれる。

「何か、意味があるはずだ」

読みの深い読者ほど、

立ち止まり、

前後を眺め直し、あるときはそれこそ、

先を予想しながら読むことでしょう。

 

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その予想という作業を授業に組み込むということは、

強制的に立ち止まらせ、

そこまでの「表現」の再点検を要求していることになります。

 

今回の場合なら、

まずは「人」の設定の再点検に注目させることが最重要でしょう。

 

「私」

「紳士おじさん」

「父」

「Rちゃん」

 

このうち、

「私」と「父」と「R」は、

すでに物語の流れの中に位置づけられています。

 

でも、まだ流れの中にいない人がいるよね?

 

「紳士おじさん」は冒頭に現れ、登場を予告されながら、

まだ出番を待っています。

この後の予想作業は、

「紳士おじさん」がどこでどのように登場するか、

その可能性をテキストに即して点検することが中心になるべきではないでしょうか。

 

これはある意味わかりやすい「謎」の設定です。

「紳士おじさん」はどこでどのように登場するか?

この作品は、この問いをハッキリ読者に提示して始まります。

 

私なら、「紳士おじさん」が

「私」

「父」

「Rちゃん」

の誰とどのような関係を結ぶ可能性があるか、

いくつか想像してみるという程度の活動にすると思います。

別に無根拠でもいい。

 

「紳士おじさん」はここに一番長くいた。

「Rちゃん」よりも?

「紳士おじさん」と「Rちゃん」の間に何かがある?

 

あと一つ設定するなら、

「Rちゃん」は「ん」まで読み切るのか?

という問いかな。

 

ここで彼女の、少し特異に設定されているキャラクター・言動を点検する機会を設ける。読み切らせてしまわないで、

いろんな可能性をかんたんに共有して、次を読む。

 

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やってみたいのは、

読み直しです。

 

予想したときに、

もしかしたら「Rちゃんは……」と思った人もいるかもしれない。

その後を読んだ上で、

もう一度読んでみて、気づくことはないか。

 

そう思い、読み直すと、

「Rちゃん」は、

物語のストーリーについての色んな批評をしていることに気がつきます。

 

「どうしてうそのお話ばかり読んでるの」

「どうせハッピーエンドなんでしょう?」

「ご都合主義」

「甘ったるい」

 

そして彼女自身は、

「事実」だけが書かれた百科事典を読むのです。

 

「どうしてうそのお話ばかり読んでるの」

「どうせハッピーエンドなんでしょう?」

の裏に響くのは、

「現実はそんな風にうまくいかないのよ」

という声です。

ここには作家によって仕組まれた「伏線」が潜んでいるように感じられます。

 

「Rちゃんが求めるのは『本当のお話』だった。」

 

すると次々に、

フラグが立ち始めます。

そのつもりでRちゃんのせりふを読んでみる。

その活動をやってみたい。

 

作家はもちろん、この後に起きることを知った上で言葉を選びます。

そして、おそらく、読者がもう一度、

テキストの始めに戻ってきてくれることを期待している。

 

Rちゃんは

無数のものごとが「世界を支えている」という〈哲学〉のようなことを口にします。

Rちゃんの最後の映像と声をここに置くことで、

ここに作品のメッセージの核心の一つがあることを示唆しています。

 

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Rちゃんが、アッピア街道のさらに向こうの、

「ん、が支える世界のかけらを見つめている」ように感じているのは、

結末を知っている「私」=語り手です。

「私」の視点から見えているのは、

たくさんの事実に支えられて成立している世界を

順番に、

しかしその先がどうなっているかわからない生を生きている自分たちの姿です。

 

そして、ここで百科事典を読むという行為が、

この世界を生きることの隠喩になっていることに気づきます。

 

それは同時に、

では、百科事典を〈書き写す〉という行為は何を意味するのか、

という問いを生みます。

 

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ここにはもうひとつ、

百科事典から想像する、という営みが印象深く描かれています。

私たちは世界のすべてを体験することはできないけれど、

アッピア街道を想像することはできる。

 

記されたテキストという事実に規定された小説世界もまた、

想像という営みを経て、

それを生きることができます。

というよりも、

想像し、予想し、ふりかえることによって初めて、

生きた世界として立ちのぼる。

 

「想像・予想/事実」。

「生/読む」

 

これらの密接な関連を、

理屈ではなく実感できる活動の場として、

今回のやり方、

また、

この教材を使いたいという思いがします。