国語教育いろいろ

高校、大学の現場での議論のいろいろです

夢十夜第六夜――文学作品の授業の過程

夢十夜第六夜

いろんな学びを生かして、
念入りに準備された授業でした。

 

⭕️分析ー解釈というライン
この二つの次元を分けるという方法は
他のみなさんも意識しておいてください。
文学作品の授業の過程には、
例えば、こんなものがあります。

◯初読のなんとなくの感想、読後感を出す

◯みんなで分析。テキストの可能性を根拠に基づいて耕していく。

(語り手は?など、今日使われていた西郷竹彦さんたちが提唱するような分析装置も利用できる)

◯分析の共有は、必ずしも一つの解釈に焦点を結ぶものではない。むしろ、自分が思いもしなかった観点を受け止めることによって、初読の印象が覆されていくところに、教室での読みの醍醐味がある。
●教師は多様な気づきが発揮されるように、デザインする。

◯そして解釈。解釈(ここで言っているのは、なんらかの現実に照らして作品の意味や価値を取り出すことだが)の方向には、今日出ていたように、二つあります。一つは、「作者」の現実に立脚するもの。

もう一つは、「読者」が自身の現実から構成するもの。

◯各自の解釈の交換。これも教室ならではの営みです。まあ言わば、作品をネタ(かがみ)にして、今の自分の読み(感性や思考や欲望や……)を言い合うことになります。ここでもまた、そんな見方があるのか!という気づきが、教室ならではの「おもしろさ」を生みます。

これは、作品の生命の、ある意味再生産です。

ーーー

生徒だけでなく、
私たちはふつう、小説というとそのストーリーを読んでいるわけです。
世にはストーリー命の小説もたくさんあり、それはそれで価値があるのですが、
筋書きだけではなく、テキストの表示する深層について、
ああだこうだのやりとりが可能なテキストもあり、
例えば夢十夜などもその一つです。

 

⭕️「運慶が生きているわけ」

この作品の最後の謎は、これですね。
語り手はそれが「わかった」というわけですが、私たちはわかってない(笑)。
突き放されて終わっちゃう。

論理的には、明治の木には仁王は発見されないのですから、「運慶はもはやいない」とあるはずです。少なくとも、運慶みたいに彫ることはできない、
あ~あ。こうなるはずなのに、ならない!

今日はそこまで行きませんでしたが、
みなさん、ぜひ、自分の考えを書いてみてください。

一つの観点を書くと、
これは夢だという約束の上で読まれる作品です。
夢は覚めるから夢です。
夢十夜のどの話にも、書かれていないけれど、
前提されているのは、
これらの話の余白には、
夢から覚めた語り手がいるということです。
「こんな夢を見た」と語っている場所がある。

 

⭕️端末で意見を作っていく

みなさん、いっしょうけんめいに書いていました。どうでしたか。
ますますこのような形の共同作業、共有が増えていくと思われます。
その教室の基本的なスタイルができれば、色んな分野の学びに使うことができますね。

ただし、
課題もあります。
例えば、今日の活動には、
問いを理解し、適切な箇所を読み、自分の発見を持ち、隣と交換し、
適切な言葉で、時間内にタイプする、
といういくつかのステップが含まれていました。

実際の教室ではこの過程のどこかでつまづく生徒がいるでしょう。
こういう過程はもちろん機器のない時代にも、ありましたが、
違うのは、その結果がすぐにオープンになる点です。

このことは、よく自覚しておく必要があります。