(2017.4)【伊勢物語芥川の模擬授業後】
今日の伊勢の芥川について、
あの話は、「想う人と思いを遂げたと思った瞬間にそれを失う」という、
一つの話型なのだと気づきました。
帰りの電車で。
あそこで永遠に失われたのは、
「あれはなあに?」(不安)
「あれは露さ」(安心)
という、恋人としての会話です。
遠い虚空から飛んできた二つの宇宙の塵がぶつかるように出会う、
その直前、
「あれはなあに」と「あれは露だよ」の二つはすれ違い、
再び虚空に消え去ったということなのです。
男の歌が「仮定法」で歌われ、
虚空に響くように聞こえるのはそのためです。
そう思うと、
この「思いを遂げたと思った瞬間の喪失」という形は、
繰り返し語られ、
源氏物語のようなものの中にも、
そして、
現代文学の中にも生きていることに気づきます。
この前読んでいた村上春樹『国境の南、太陽の西』を思い出しました。
ネタバレになるのですが、
ここでもやはり、思いを遂げた瞬間、女が消えます。
『ノルウェイの森』もある意味でそうです。
村上の小説の「国境の南」というのは、
ある意味であの「伊勢」の男が女を背負いながら目指した場所、の象徴のように感じます。
でも、そこへたどり着くことは、幻影のようなもので、
「女」(夢)は消え、
「自分」(現実)は残り、人生は続いていくのです。
このような誰もが味わうであろう生の感触が、
あの短い古文の中には凝縮されて示されています。
坂口安吾は「文学のふるさと」のなかで、
伊勢の芥川を引き、
そこに「文学のふるさと」があるといっています。
私がもし今度「芥川」を授業するなら、
今回気づいたような観点を取り込むと思います。
――このように、古典は常に新たに、いろいろな気づきをもたらしてくれます。
一般の読者にも、国語の先生、にも。
新たな気づきを探り、教材に惚れること、がプロには課せられています。