国語教育いろいろ

高校、大学の現場での議論のいろいろです

夢十夜 第一夜 「そら、そこに、写ってるじゃありませんか」問題

●出た意見例メモ 2023/4/22分 夢十夜第一夜

・夢だとはじめに言ってしまうわけは?
・女と自分の関係は?
・自分はこれを夢だと自覚しているのか?
・女という呼び方から、知らない人なのでは?
・死にそうに見えない→死ぬな、の変化はなぜ?
・女は「自分」に向かって「あなたはもう死ぬ」と言っているのか、と読んだ。
・白はどんな白? 唇の赤さは健康を示す?
・映像の解像度が高い。
・繰り返される「静かな声で、」、二度目は「、」かついている。
・そうかね……なぜそんなに冷静なのか?
・ぱっちりと眼を開けた――怖い。
・真っ黒=白目がない? 生きていることを示す?
・ひとみに自分の姿が見える――大変長く見つめている。
・「」のあるせりふとないせりふの違いは?
・「そこに写っている」問題。
・腕組み――変な感じ。どんな意味が?
・大きな真珠貝――大きいと言っても小さいはず。このサイズ感は?
・日が出る、沈む――なぜわざわざこんなことを言う?
・色つきの夢を見ますか?
・意志の働く夢を見ますか?
・百年待つとは? 人の命の長さを超えている。
・ひとみの中の自分の姿が崩れる――ピントが合わなくなった。
・もう死んでいた――ほんとうは死んでいないのでは?という感じがした。

●「そら、そこに、写ってるじゃありませんか」問題

「じゃ、私の顔が見えるかいと一心に聞くと、見えるかいって、そら、そこに、写ってるじゃありませんかと、にこりと笑ってみせた。自分は黙って、顔を枕から離した。腕組みをしながら、どうしても死ぬのかなと思った。」

 通り過ぎてしまいそうなところで「待った!」がかかる。みんなで教材研究をする面白さですね。いろんな考えが出され、投稿されています。
 ここにある違和感は、質問に対するこの答え方が「ヘンな感じ」がするというものですね。この「ヘンな感じ」へのアンテナはこの後も大事に磨いてください。前回の詩もそうでしたが、文学は特にこの、日常の言葉にはない「ヘンな感じ」を駆使する芸術です。まして、今回のは夢!

○なぜヘンか

 何がヘンか。
「私の顔が見えるかい?」に対する答えはふつう、「見えるわ」「見えないわ」「だんだん見えなくなってきたわ」などですね。フルセットで答えるなら、「私にはあなたの顔が見えるわ」などとなります。
 「自分」には「女」の知覚の状態はわからない。だから訊いた。それなのに女の答えは「(あなたは、私にあなたが見えているかどうかわからないから、)見えるかいって(訊いたのでしょうが、実際は)、そら、そこに、(○○が)写ってるじゃありませんか(訊かなくても、ほら、あなたにも見えているでしょ(笑))。」というものです。
 確かにヘンだ。

 「そら、そこに、(○○が)写ってる」は、日常なら、二人で写真などを見ていて、「君はどこに写っているのかな」「そら、そこに私が写ってる」のように、二人で同じ対象について交わす言葉ですね。相手の視力の状態についての問答じゃない。
 「ヘンな感じ」の正体はこの辺にありそうです。

 話題になっている「自分(おそらく男)の姿」は、女の瞳の奥に「鮮やかに浮かんでいる」と書いてありました。それをふまえて、「そこに、(○○が)写ってる」は、「私(女)の瞳の中に、あなた(「男」)の姿が映っている」のだと解釈すれば、前の描写と整合します。

 ただ、ここでさらに疑問が出るんですよね。
 「映ると書かれてない!」
 「女がなぜ自分の瞳に映るものについて、あたかも自分もそれを見ているように語るのか? 彼女には見ようがないじゃないか」
 「相手の見ている状態を答えても、自分に見えているのかについて答えたことにならないではないか!」

 いろんな解釈の仕方があると思いますが、いずれにせよ、立ち止まって考えてみることで、この場や二人の関係について同じようなイメージに至る気がします。教室で大事なのはそのへんかなと思います。

○「写」っているのであり、「映」っているのではない
 
 今回出た、ここは「写」であり、「映」ではない、と指摘は、なかなかおもしろいと思いました。ここを出発点にしたらどういうことになるのか、少し考えてみます。

 「写」と「映」はどう違うか。
 「写」はコピーだと指摘されていましたが、そうですね。つまり、本体があり、コピーすること/されたものが「写」。コピーは、あくまでコピーだけれども実体を持ちます。コピーされたノート、写真は実体として残る。
 一方、「映」は、例えば鏡像のように、本体を反映する光があるうちは見えますが、本体がなくなれば消えてしまいます。水面に映る月影は月が沈めば消える。水面に映る月影を写した写真は残る。
 ・写=残る / ・映=消える

 さて、ではなぜ女は、自分に相手が見えているのかについて、すなおに答えないのでしょうか。
 ここにある感触は、この瞬間の会話が独立した二つの意識の間で交わされたものじゃないという感じです。話者である男の意識がこの世界にダダ漏れに浸透している。境目がない。「そら、そこに、写ってるじゃありませんか」にも男の意識が漏れ出ているとするなら、「写」の意味はこうなる。
 「自分の姿は女の瞳の中に、もう一つの実体としてコピーされている」。それは、自分がのぞき込むのをやめたら消えてしまうようなものではない。女の言葉は、男には、「あなたの姿は、私のからだの中にあなたの分身として溶け込んでいるわ。ほら、そこに――私の瞳の中にその証拠が見えるでしょう?」というように聞こえる。
 「そうだね。君の中に僕がコピーされているのが確かにわかる」
 もうこうなると、分身が溶け込んでいるというよりも、男の意識は完全に女の意識と一体となって、自分たちが一つになっていることを、同じ場所(視点)から指差しして眺め、確かめていることになります。

 少し目を離して一文全体を見ると、男が「一心に聞く」と女が「にこりと笑ってみせる」という描写になっています。男がへんにたんたんとしていて、女も静かに語る中、ここだけ感情や表情が表に出ている――そこも併せてイメージしてみると、この瞬間の感触がより実感できるかもしれませんね。そして、ここを境として、女のせりふにカギ括弧がつくことになります。