国語教育いろいろ

高校、大学の現場での議論のいろいろです

具体例を追加すること 「コインは円形か」

「コインは円形か」の模擬授業。

本文を学んだあと、別の実例を取り上げ、どんな視点があり得るか考えようというのが、最後の活動でした。

コインは円形にも見えるし、長方形にも見える、という物理的な例しか本文には挙げられていませんでした。

人間とか組織についてもいえる、という言及はあったけれど、例はない。

視点の転換、別の視点からの別の表現を発見するのがレトリック感覚だということは読み取れますが、具体的にどうすることなのか、確かに例がほしいところです。

その「練習問題」をやって初めて、本文の説くところが現実的にどういう意味なのか、腑に落ちますよね。いいアイデアだったと思います。

ほかのみなさんもこの活動の題材について、こんなのはどうかな?というものをぜひ考えてみてください。

提示された例では、対象についての「メリット」「デメリット」というまとめ方になってしまうという点が、協議でも指摘されていました。

「優先座席」の「メリット」「デメリット」とかね。たしかに、「メリット」の視点、「デメリット」の視点を見つける課題ともいえますが、問題は誰にとっての「メリット」「デメリット」なのか、という点が問題です。

「メリット」「デメリット」には価値判断が入っています。ある立場Aにとっては、それはよい。別の立場Bにとっては、それは悪い。そういうことですね。

ここでの課題は、その判断の前提となる見え方そのものを表現してみるということなんじゃないかな。

  • 価値判断(よいわるい)と認識(そう見える)を分けて考えみる

Aにはそれがこう見える。だからこう判断する。Bにはこう見える。だから……というわけです。

コインを上から見る人には、円形の安定した形に見えるから、紙が風で飛ばないように押さえる重しとしてのメリットを思いつく。

コインを横から見るシルエットに気づいた人には、コインは堅くて薄い金属と捉えられるから、ネジをしめるというドライバーの代用としてのメリットを思いつく。

コインを手のひらに収まるサイズの金属の塊と捉えた銭形平次は、悪者に投げつける武器としてのメリットを思いつく(笑)。

 

⭕立場・立つ位置によって、見え方が変わる。

⭕平均的な日本の教室の生徒なら、こう見るだろう、と想定できる

→でも、今回学んだような視点の転換を試みると、「あ! そういう人にはそう見えるよな」って気づくようなもの。

 

まず、認識の転換を「はっ!」と感じられるようなのがいいですね。どんなのがあるんだろう。

社会的な例を考える前に、コインのような物理的な立体や物質について、ほかの例を見つけてみる活動も挟むといいかもしれませんね。

活動を何段階かに分けて進めていく手もあると思います。

例えば、

人間にとって壁は行く手を遮るものですが、蟻にとっては行動範囲を上下に広げる道です。

人間にとって水の露は時間が経てば蒸発して消えていくはかないものですが、小さな蟻にとってはその表面張力に飲み込まれたら命取りになるようなネバネバした球体です。

次に、人間関係などについて、その「言い方」(レトリック)を変えると見え方が変わる例も探したい。

「りんごが地面に落ちる」を「りんごと地面が引き合う」に変えるような。

例えば、

「○○は私を一日中そばに置いてかわいがってくれた」は、

「○○は私を一日中私を放さず、束縛し続けた」。ともいえる。

〈私の彼、一日何個もずっとLINEくれるねん!〉ってラブラブな友達も、外から見ると、〈ちょっと、そこまで行ったら、ヤバそう〉と見えるかもしれません。恋は視界を狭めると言いますからね……。

こうやって、少しずつ、もっと複雑な対象への「見え方」の違いにも気づいていきたいですね。

いくつかの異なる視点に気づくことは、自分が主張したいことに説得力をつけるためにも必要なことです。

裁判では、一つの事件に対して、検察と弁護側で視点が対立します。

それぞれは、相手側からの見え方を十分踏まえた上で、それを説得的に否定することで自らの意見を通す必要があります。

こういうことは、例えば、研究の場面でも生じるでしょう。研究が進歩するのは、視点を変えたことによって、さらに新しい視点を獲得するからです。

光は波か粒子か。

波に見える立場と粒子に見える立場がぶつかり、議論が行われる。そのとき、それぞれは相手がなぜそういうのか、その立場にいったん立ってみる。すると、相手の言い分にも理があることに気づく。

そこから光は波でもあり、粒子でもある、という別の視界が開けたわけです。

異なる視点を探す努力をすること。

そこから自分の最初の考えを補強したり、まったく新たな考えを生み出したりすること。

このことは本文でも触れられていましたね。

なんとか、自分たちがピンとくる事例を補助線として、理解し、実践できるようにしたいものです。

深刻な例で言えば、戦争している勢力どうしでは、見えているものがまったく異なります。もう、そうしか見えなくなる。抜けられなくなる。相手の立場なんか考えられなくなる。それが現在も起きている悲劇です。

相手の立場に立とうと思えば立てるうちにその訓練をしておくことは必須ではないか。 そう思います。精神を硬直させず、柔らかく新たな見え方を発想できる力が「知」の力です。

「知」の柔軟性が失われ、スマホという小さな窓から、システムによって偏向させられた情報だけ見ていると、その視点が世界のすべてだと思い込むようになる。

事件に巻き込まれ、当事者になってしまったら、冷静には見られなくなってしまいます。教室という仮の場で、視点転換の経験を積んでおくことは、生きていくためにとても大事であると思われます。