国語教育いろいろ

高校、大学の現場での議論のいろいろです

詩――崖

「詩」の模擬授業への挑戦、

たいへんありがたかった。

「詩」(韻文)は、ことばの学びの核心にある素材であるにもかかわらず、

現場では避けられる傾向があるからです。

特に高校。

 

詩の授業、何をしていいかわからない。

 

そういう声があります。

「受験に出そうな」素材を優先した結果、

時間がなくなったり。

 

しかし十代は「詩の時代」ではないか。

詩のマジックに感応できる臨界期をのがすのはもったいない気がします。

 

「ことば」の一つ一つに全身で反応すること。

詩から立ちのぼるものを味わうには、

その咀嚼が必要なのです。

その意味で、

今回の「ことば」にじっくり向き合う構想は、

詩の授業の原則として正しい。

 

もう一度、10分ほどとって、

「崖」を咀嚼し直してほしいと思います。

 

 

 

 

 

戦争の終り、

サイパン島の崖の上から

次々に身を投げた女たち。

 

美徳やら義理やら体裁やら

何やら。

火だの男だのに追いつめられて。

 

とばなければならないからとびこんだ。

ゆき場のないゆき場所。

(崖はいつも女をまっさかさまにする)

 

それがねえ

まだ一人も海にとどかないのだ。

十五年もたつというのに

どうしたんだろう。

あの、

女。

 

 

まず「崖」。

あ、崖か、と情報処理し、

私たちの目はすぐ次の行に移ろうとします。

 

ちょっと、待った!

 

詩を味わうモードは、

情報処理のモードとはちがいます。

「崖」で立ち止まる。

 

崖?

崖!

ガケ。

GAKE。

 

何度も「ガケ」と発音してみて下さい。

同時に、「崖」という漢字を凝視してみて下さい。

脳内に、崖の映像や吹く風や、さまざまな匂いを立ちのぼらせてみて下さい。

雨を降らせたり、

夕日を眺めたり、

凍てつき荒ぶる波濤をその向こうに見たり。

 

(私は今、崖と書いていて、

ライ麦畑が広がる景色が浮かんできました。

それはおそらく、今朝の気分がそうさせる)

 

ガ・ケ、という音に感じる感触。

それぞれに湧いてきたイメージ。

教室なら、

それらをことばにして交換することもできます。

 

こうやって、

「崖」という文字から立ちのぼった味わいの上に、

1行目、

「戦争の終わり、」の世界をかぶせていくのです。

 

「戦争の終わり、」は、

「戦争が始まった」ではない。

 

この語りは、

「戦争」が終わる、終わったことを知っている。

「戦争」の外にいる。

「戦争」の中にいる人は、

「戦争」がいつ終わるか知らない。

終わってほしいと願いながらも知らない。

 

戦争は勝手に始まって、

すでに多くの人が死んだだろう。

なぜならもう

「戦争の終わり、」だから。

 

そのときの心。

そのときの風景。

「崖」のイメージと重なりあう、

「戦争の終わり、」のイメージを

ようく味わってみて下さい。

 

以下このように、

立ち止まり、立ち止まり、

一行、一語から立ちのぼる音色やイメージを

レイヤーを重ねるようにして、

(アニメーションのように)

詩全体の世界を自分の中に生成していきます。

 

ぜひ試みてください。

いわばツッコミ読みの「詩」バージョンです。

この作業を通じて、

近現代詩の魔法に気づくでしょうし、

授業の構想もしぜんと浮かぶでしょう。

 

○いそがないこと。

 

音楽が音や声を

美術が木や石や顔料などを

素材とするように

詩はことば(日本語)を素材とします。

 

音楽や美術がその素材の特質を最大限使って表現しようとするのと同様、

詩はことばという素材のもつあらゆる側面を組み合わせようとします。

 

日本語の場合、

多様な文字モードを持ちます。

漢字かひらがなか、

ローマ字か。

 

どこで改行するか、

句読点はどうするか。

 

そして韻律。

詩の命は音の連なりにあります。

 

美徳やら義理やら体裁やら

何やら。

 

これらも何気なく並んでいるのではない。

義理と体裁の語順が入れ替わるだけで

韻律は変わってしまう。

 

また、

よく見ると、

漢語らしい漢語は

「戦争」「美徳」「義理」「体裁」

以外使われていません。

 

漢語というのは、

外来語。

よそよそしいことば。

 

そして、

最終連。

声の音質が変わります。

ふしぎなイメージと

斜めに縮んでいく行。

 

味わい、

たくさんの問いが浮かぶことを

もう一度体験してみて下さい。