国語教育いろいろ

高校、大学の現場での議論のいろいろです

ティム・オブライエン「待ち伏せ」と大岡昇平「俘虜記」の読み比べ。その3(高校一年生)

■「待ち伏せ」「俘虜記」を読み比べて考えたこと(例3)

 提出作文から抜粋・編集して、二作品から得られたことを整理してみたい。引用については、流れに整合性がつくように適宜表現を変えたところがある。

 感想から。兵士の内面にふれたことは多くないと思う。

  ●「この二つの物語は今までに読んだ戦争の話の中でも、最も強く主人公の心情が胸に迫るものだった。」
  ●「私は今まで戦争を機械的にしか考えていなかったことに気づいた。「戦争は二度としてはいけない」。作文を書くたびに使ってきたフレーズだ。間違ってはいない。むしろ、正しい。しかし私は戦争について、しっかり考えていなかったと思う。…(極限状況の恐怖の考察などを経て)…ここまでじっくり戦争について考えたことは初めてかもしれない。戦争の本質・意味などについて考えてやっと、改めて「戦争は二度としてはいけない」という考えに至りつく。経過なしで結果にたどり着くのはおかしい。」
 
 次に、似ているところの指摘。同様の考察は多かった。

  ●「「結果」が大きく違うものの、危険な状況におかれた主人公たちの一瞬の心の動きがよく似ていると感じた。ふたつの物語の主人公は、どちらも無意識に武器を相手に向けている。この部分は私が最も怖いと感じたところだ。反射的に人を殺すように主人公が訓練されていたということも、もちろん恐ろしい。だがそれ以上に怖いと私が感じたのは、極度の緊張感の中で危険に遭遇したとき、少しでも自分の命を脅かす可能性のある存在が現れたとき、人は、「自分を守らなくてはならない」という本能に動かされてしまうということだ。」

 得体の知れない〈恐怖〉が、ティムには手榴弾を投げさせ、一方、大岡の、最初の、撃とうとする衝動を止めた。しかし〈恐怖〉は再起動し、ぎりぎりと彼を追い詰める。偶然、というばそれまでだが、この、〈決定的な瞬間の引き延ばし〉には、理由があり、それが二つの結果を分けたともいえる。違いについて、いくつか。

  ●「ティムはまだ若く、自分の直面した恐怖から逃げたいという気持ちしか持たなかった。大岡は年を重ねており、父親としての情など、自分をいったん離して考えることができた。…僕はこれらの描写から、人は、元の自分の考え、思い込みなど潜在的な成分と、実際に極限状態に至ったときの緊張感、恐怖から来る突発的な成分が混ざり合ったとき、その状況からなんとしても抜け出したいという気持ちに制御がきかなくなるのだと考えた。」
  ●「ティムは、若者が通りかかるまでは自分が死ぬ可能性について、深くは考えていなかったように思う。「自分が死ぬことはないだろう」という意識が心の奥底にあったのではないだろうか。だからこそ、若者が自分のすぐそばに来たとき、無意識に「自分を守らなければならない」と考え、その考えに支配されたのだと思う。/一方、大岡は最初から死ぬつもりでいた。実際死のうとしていた。死の覚悟はできていたのだ。「殺しても殺さなくても運命は変わらない」と思ったり、自らの父親としての感情を抱いたり、殺す以外のことを考えられる余裕のようなものがあったと思う。」
  ●「もう一つの理由は、「何人でいたか」だと思う。ティムは二人だったために「殺さなければならない」という思いに支配された。/しかし、大岡は一人で行動していたので、〈平和時の感覚〉があったのだ。」
  ●「共通する恐怖に対して、なぜこうまで二つの結果が違ったのかという問いに対する答えは、「偶然」だ。「待ち伏せ」の場合は恐怖の対象に対して、怖いという感情のまま手榴弾を投げた。恐怖は恐怖のままであった。しかし「俘虜記」の場合は相手の持つ「美」への驚きや「若さ」への感動・愛着を感じた。私はこの愛着というものが彼を殺させなかった理由だと考える。では、偶然が結果を生んだということに矛盾するじゃないかといわれそうだが、私は、愛着が偶然を生んだのだと思う。愛着が湧き、一瞬殺すのをためらったことが、銃声がとどろくまでの時間を埋めたのだ。」
  ●「ティムと大岡の運命を変えた違いは、本当にちょっとしたことだったのがわかる。自分の運命、もしくは自分の中にある戦争。それらに確実なものなど何一つなく、偶然ですべては成り立っているのかもしれない。しかし、「偶然」はすぐにやってくるとは限らない。その「偶然」がやってくるまで待つという、大岡にあったような心の余裕持つということも重要なのではないかと感じた。」

 大岡は「自分をいったん離して考えることができた」など、瞬間的に〈人間〉が戻っていた点を指摘している人は多かった。すべて「偶然」といってしまえば、それまでかもしれないが、その「偶然」を招き寄せた〈人間的態度〉がある、という読みは妥当であるような気がする。  また、それは、人間というものについての希望でもある。

  ●「攻撃する側もされる側も、とてつもない恐怖感の中で戦っていることがわかりました。しかし一方、どんなに訓練されて反射神経レベルにまで高められた攻撃力をもつ兵士でも、人間本来の感情を忘れていないんだと分かって、人間に希望を感じることができました。」

 「未来」をキーワードにした考察。

  ●「どちらも敵が〈若者〉という設定になっていることについて考えた。無限の可能性をもつ若者、それが敵になる。/ティムの場合は、彼を殺してしまう。しかし、気づく。彼には未来があったと。だが、戦争は殺し合うこと。いくら相手に未来があろうが、自分にだって未来はある。未来の奪い合い、それが戦争なんだと思う。そして、ティムは、死にたくないという恐怖から自分の未来を守り、若者の未来をつぶす。その後悔と罪悪感が幻影を生む。殺した若者の幻影が微笑むのは、ティムが、この若者には微笑むような未来があったのでは、と想像したからではないだろうか。/一方、大岡には、若者に対する「父の感情」が生まれている。大岡もまた、若者の無限の可能性を悟った。ただ大岡の場合は、それによって彼を殺すことができなかった、もし殺せば、後悔する。…」

  極限状況の記憶、書くこと、について。

  ●「共通する点として、どちらも、自分が殺した、または殺そうとした瞬間を、まるで写真のように、心の中に記憶しているということだ。極限状態に追い込まれたときには、そんな風にしか記憶できないものなのだろうと思った。/戦争を経験した作家たちが戦争の物語を書く理由とは、戦争を後の世代に語り継いでいくためであると私は思っていた。しかし、今回この二つの物語を読んで、たぶんそれだけではないと思った。きっと、彼らは、物語を書くことによって、自分の中にある写真のような記憶をつなぎ合わせ、その写真一枚一枚について考察し、自分の気持ちを整理しようとしているのではないだろうか。」
  ●「…しかし、「俘虜記」を学んだことにより、新たな考えが生まれた。ティムは、戦争の話を忘れないようにしていたわけではなかったのではないか。どちらの主人公も戦争の恐怖におびえていることがわかった。むしろ、戦争を忘れたいはずである。それなのに書き続けているのはなぜだろうか。村上春樹が「人は誰もが自分の中に戦争を抱えている」といっているのを読んだことがある。これを頼りにすると、ティムは、そのような戦争の経験に共感を求めているのではないか、と考えた。消えない恐怖におびえながら、共感を求めて書き続けているのだ。」

 重要な指摘だと思う。「伝えるために(他者のために)話す」というだけでなく、ことばには「自分のために話す(書く)」という機能がある。特に、書く、というのは、自分と対話し、さらに、その自分の書いた文章と対話することだ。文学は、この、自分との対話が出発点にある。読む、ということは、その対話のプロセスを追体験することでもある。たとえば、物語の体験と読者の中にある〈戦争〉が共鳴したとき、そこに一つの新しい〈現実〉(リアリティ)が生まれる。書き手の根にも、読み手の根にも、共感を求める気持ちがあるのは間違いない。そうやって共有されたことは、たんなる意味や意見より、強い命を持つ。文学の力だ。