国語教育いろいろ

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ティム・オブライエン「待ち伏せ」と大岡昇平「俘虜記」の読み比べ。その2(高校一年生)

■「待ち伏せ」「俘虜記」を読み比べて考えたこと(例2)

 ▼いくつかセレクトした。趣旨が通るように、カットしたり、字句を修正したところがある。

●人を殺す、あるいは殺されるという、究極の極限状態に追い込まれたとき、人はどうにかしてその死から逃れようとする。例えば「待ち伏せ」では、身体の動きに心の動きが突然ついていかなくなり、「現実」はその後に突きつけられる。これは、「死なないようにする」という意味の「逃れる」ではなく、自分の精神を「死」という現実に向き合わせないようにするものだ。
 その中で生まれる恐怖とは、なんらかの理由で、その「死」と真正面から向き合ってしまい、それが誰のものであれ、「生」が「死」へと変わる感覚を味わうことではないかと思う。
 それは戦争だけではない。例えば動物番組などでライオンが生きたシマウマを狩り、殺し、食べるシーンがあったとする。私たちはそれを見ると、うまく言葉では表せない、まさに胃から何かがこみ上げるような感覚に襲われる。だが普段私たちは、ライオンの「かっこよさ」としか向き合っていない。だから「死」による怖さを感じないのだ。
 戦争では、誰かを殺す、という行為が利益となり、手柄となり、ほうびへと変わる。だが、生きている人である以上、「死」をめぐる怖さは消えない。だから、殺すことは無意識のものとなるが、しかし、行為の後、やがてその「現実」は、人に突き刺さり、一生残り続けるのだ。
 二つの作品は、戦争について述べている。しかし、これらの作品は「戦争はやめよう」という趣旨のものではないと思う。「これが、戦争だ」ということを、戦争に行った人の視点から、戦争を体験した人にしか表せない言葉で書く。そうすることで、それを(娘を含めた)未来につなごうとするものであり、それがこの作品に描かれた唯一の希望であると私は感じる。

 ▼恐怖についての実に深い考察だ。この説によると、そのとき身体と精神は明らかに分裂し、混乱し、錯綜している。無意識の身体の動きの底で、別の身体(胃)は、「生」が「死」へと変わる感覚=恐怖を感じている。この分裂は、記憶の欠落といった異常事態を招く。

  ●「待ち伏せ」「俘虜記」、どちらの場合にしても、恐怖を感じているのは共通だ。でも、その「恐怖」の中身は少し違うものだと感じる。
   まず、「待ち伏せ」では、若者が攻撃してこないであろうことをわかった上で、「その若者が怖い」と感じている。つまり、自分が死ぬ死なないに関係なく、なぜか若者が怖いわけで、それは場の雰囲気や若者の見た目など、それが起きた場の状況が大きく影響する。
   一方、「俘虜記」では、こちらに兵士がゆっくり近づいてきたときに、「息詰まるような混乱した緊張感」、すなわち恐怖を感じた。自分がその場にいることに相手が気づく可能性がある中、近づいてきた兵士に殺されるかもしれないという恐怖だ。
   どちらも恐怖を感じてはいるものの、それらには大きな違いがある。それは、「自分の生死に直結しているか」である。戦場で敵を恐ろしく感じるのは当たり前のことだと思うし、むしろ感じないほうが変だ。でも、これらの異なる恐怖は意味が違う。同じ「恐怖」という言葉で表現されるけれども、それは表し方がないからだと思った。
   また、「待ち伏せメモ」で誰かが書いているように、「これは『戦争は架空の恐怖の上で行われる』ということの、最も小規模で、基本になる感情」だと考えるとすれば、「待ち伏せ」の恐怖は、戦争を引き起こす感情で、「俘虜記」の恐怖は、戦争が起こさせた感情なのではないだろうか。
 
 ▼この的確な区別に驚嘆した。この二つの恐怖の連鎖は、暴走する。止めることはできるのか。そのヒントが次に。

  ●(前略)「俘虜記」の「私」には、人間らしい感情が働いていたから、銃声が鳴るまで撃たなかった。「私」は、撃たなかったのは決意の結果ではないと書いているが、決意をしていたことが理性の働く余地を与え、安全装置を外すまでの時間を遅らせたと思う。「待ち伏せ」には、理性が本能的な動作を抑制している場面は見られない。彼らの運命を分けたのは、偶然的が立ち去ったか否か、に加えて、理性(人間的な感情)がどれだけ自分を支配できたか、にかかっていると思う。
   「恐怖」とは、理性(人間的な感情)を麻痺させ、人の内面を支配してしまうものだと思う。「待ち伏せ」の主人公は完全に恐怖の渦に巻き込まれてしまい、「俘虜記」の「私」は、恐怖に圧迫されながらも、かすかな理性(人間的な感情)によって辛うじてとどまっていたのだと思う(高熱によって感覚が薄らいでいたのかもしれないが)。
   いずれにせよ、彼らの行動の原因は紙一重だったのだ。
  ●共通する恐怖に対して、なぜこうまで二つの結果が違ったのかという問いに対する答えは、「偶然」だ。「待ち伏せ」の場合は恐怖の対象に対して、怖いという感情のまま手榴弾を投げた。恐怖は恐怖のままであった。しかし「俘虜記」の場合は相手の持つ「美」への驚きや「若さ」への感動・愛着を感じた。私はこの愛着というものが彼を殺させなかった理由だと考える。では、偶然が結果を生んだということに矛盾するじゃないかといわれそうだが、私は、愛着が偶然を生んだのだと思う。愛着が湧き、一瞬殺すのをためらったことが、銃声がとどろくまでの時間を埋めたのだ。
  
 ▼理性(人間的な感情)が、最初に起動したのが「俘虜記」、それを事後に意識したのが「待ち伏せ」(「彼に警告を与えたかった」と書いているのは投げた後…)。しかしそこには、あのような瞬間にも失われることのない〈正常〉な心の働きが記述されている。ここにある可能性は何か。

  ●「待ち伏せ」では、追いつめられたティムは「さあ投げるんだと自分に言い聞かせる前に、私はもう既に手榴弾を投げてしまっていた」とあり、自らの考えと行動が不一致で、焦りが感じられます。他にも、若者を見た瞬間に手榴弾を抜くようなティムの行動にも、同様の焦りが感じられます。
   しかし、「俘虜記」では、「私の右手は自然に動いて銃の安全装置をはずしていた」と、同じような描写はあるものの、「私」は米兵を殺しませんでした。その理由の一つとして「私」は、「『殺されるよりは殺す』というシニスムを放棄」、「既に自分の生命の存続に希望を持っていなかった」と書いています。つまり、「待ち伏せ」にあったような焦りがなかったのではないでしょうか。
   この「焦り」は、「自分の生命に対する執着」だと思います。若者を見た瞬間、殺されるのは嫌だから、やられる前にやる、と、極限状態に陥ったのが前者。自分の生命への執着を捨てていたために、陥らなかったのが後者。同じような戦争の場面でも、正反対の状況だったのだなと思います。
   それでも、最後には両者とも生き残るわけですが、「待ち伏せ」で、無抵抗の相手を殺してしまったことを悔やむティムは、自らの娘にも、あえて真実を語ろうとしません。娘に聞かせないことで、自分一人だけでこの後悔を背負って生きていこうと考えているのではないでしょうか。「俘虜記」では、「私」は米軍に助けられ、無事に生き残り、「助かったと感じた」とあります。そういった意味では、生き残っても後悔がある前者と、生き残り、希望を見出した後者は、同じように結末でも、中身は正反対です。
   しかし、前者が抱えた後悔も、娘に打ち明けることができたとき、きっと「希望」に変わると信じたいです。

  ●彼らはなぜ「書く」のか。それは、戦争での出来事がいまだに心に引っかかっているからではないかと思う。「書く」ことによって、戦争での出来事を心の中で整理しようとしているのではないかと考える。「書く」のは自分のためであり、心の中で決着をつけるためだと考える。
  ●…彼らはいまも恐怖に冒されているからではないか。ずっとずっと恐怖から抜け出せない。辛くて苦しいから、小説にし、読んでもらって、自分の気持ちになってもらうことで気を安らげようとしているのかもしれない。
  ●…両者は今も生きている。殺さなかったら殺されていたかもしれない。用心しなかったら、死んでいたかもしれない。彼らは省みることで、自分のしたことが正しかったかどうか確かめたかったのではないか。彼らは自分のしたことに絶望し、困惑していた。それらの感情を思い返し、論理を立ててつかみ直したかったのではないか。

 ▼重要な指摘だと思う。「伝えるために(他者のために)話す」というだけでなく、ことばには「自分のために話す(書く)」という機能がある。特に、書く、というのは、自分と対話し、さらに、その自分の書いた文章と対話することだ。文学は、この、自分との対話を出発点とする。読む、ということは、その対話のプロセスを追体験することでもある。たとえば、物語の体験と読者の中にある〈戦争〉が共鳴したとき、そこに一つの新しい〈現実〉(リアリティ)が生まれる。書き手の根にも、読み手の根にも、共感を求める気持ちがあるのは間違いない。そうやって共有されたことは、たんなる意味や意見より、強い命を持つ。それが希望だ。