国語教育いろいろ

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ティム・オブライエン「待ち伏せ」と大岡昇平「俘虜記」の読み比べ。その1。(高校一年生。)

ティム・オブライエン待ち伏せ」と大岡昇平「俘虜記」の読み比べ。その1。

 

■「待ち伏せ」「俘虜記」を読み比べて考えたこと(例1)

 ▼いくつかセレクトした。趣旨が通るように、カットしたり、字句を修正したところがある。

●私は「恐怖」とは何かということについて考えた。どちらの物語も「恐怖」が登場人物の行動を変えたといえるだろう。そこで気になったのは、どちらも「恐怖」が何に対するものなのかを、自分自身が知る前に行動に移している点である。「恐怖」とは感情の一つであり、その感情をもたらす何かがあるはずではないか。
 「待ち伏せ」では、「私は怖くてたまらなかった」とあるが、その理由についてはわからないままである。その後「私」は「手榴弾を投げてしまって」いて、その表現は、あたかも自分の意志ではないと読者に思わせているかのようだ。
 一方「俘虜記」では、米兵が「私」の方へ進んでくる映像は記憶されず、肉体の感覚として「恐怖」が残っているだけである。そして、同様に「安全装置を外していた」のである。「俘虜記」の「私」は「恐怖」を「自分に害を与えると自分が知っている対象に対する嫌悪と危惧の混じった不快感」と表現している。これが手がかりになる。
 結末は違う二つの物語だが、描かれる「恐怖」はかなり似たものだといえる。共通した状況として、何も知らない敵が「私」の目の前に現れている。つまり「私」が何の行動もしなければ、何も起こらないはずである。しかし、自分の命を奪う可能性のある敵が自分の近くに来たとき、人には「恐怖」という感情が生まれ、ほぼ反射的に人を殺そうとするのだ。
 こうした、戦争だからこそ生まれる「恐怖」は、人を殺し、人を殺してしまった人の心にも大きな傷を残す。今を生きている私たちからすれば、それは防げたことなのでは、と思うだろう。物語の語り手たちも、後から出来事について分析し、整理しようとしている。しかし、正確には、その「恐怖」について説明することはできないと考える。普段私たちが感じる恐怖に対して、戦場での「恐怖」は、対象を感じることができず、その感情が生まれる要因として、本能的な部分が多すぎると思ったからだ。それは戦争という命を落とす危険を伴う極限の状況で生まれ、多くの人を苦しめるのだ。

 ▼「自分の命を奪う可能性のある敵が自分の近くに来たとき」とあるが、戦場とはそっくりそのまま、「自分の命を奪う可能性」の場所のことである。「恐怖」は見えないままにすでに充満している。ティムが仮眠する草むらの中で、大岡が熱に倒れた草の下で、すでにそれは彼らの身体を包んでいる。具体的な「敵」は突然現れ、準備された「恐怖」に点火する。可能性としての敵。兵士はその幻影を潜在的に恐れているのである。「恐怖」について書かれたものをもう少し。

●…戦争の目的が、何かを手に入れ明日の発展を望むためか、侵略等の害悪を除くためか、この物語においては、そんなことはさしたる問題ではない。戦争は、何が原因であれ、人々の命を脅かし、「殺したくはない」「生きたい」という至極当然の普遍的な欲求を圧迫する。さらに「国のために戦え」「殺すか殺されるかだ」等、洗脳的な考えを押しつけられ、人々はある種のパニック状態に陥る。これはティムが手榴弾を投げたときの様子や、大岡の考え方から見て取れる。こうして戦争は人を通常以上に敏感にし、常に得体の知れない、逃げられない恐怖で満たす。…「戦争」は、個々人の抱える、または植え付けられた恐怖やパニックが一つに集まり、同じ方向を向いただけの、虚像の塊なのかもしれない。
●…本当の敵とは戦争をしている相手や戦争そのものなのではなく、戦争がもたらした空気感や恐怖、自分の意としないことをしなければならないこと、それらにどうしても打ち勝つことのできない状況なのではないか、と思います。

 ▼なぜ書くのか。そして、希望。

●私はティムや大岡がなぜ書くのかについて考えた。
 彼らの体験は、戦場においては珍しいことではない。しかし、彼らはその体験を鮮明すぎるほど詳しく覚えており、忘れることができない。忘れられないのは、もちろん、彼らが激しい衝動や苦痛を感じたからである。普通の暮らしをしてきた彼らにとって、人を殺したり殺されたりといったことは、非現実的なものであった。
 では、なぜその体験を書くのか。理由は二つあると思う。
 一つ目は、自分の体験を細かな光景から自分の感情まですべて記し、他の人と共有することによって、心の負担を少しでも軽くしようとしたということだ。二つ目は、体験をより多くの人に読んでもらい、「戦争」というものをより実感をもって感じさせ、深く考えてもらうということだ。
 どちらも、主人公の感情や出来事がとても詳しく描写されているのに対して、彼ら自身の、戦争に対する意見のようなものは全く書かれていなかった。しかし読んでみると、まるで自分が体験しているように胸に迫ってくる何かがあった。主人公の恐怖を感じて、私まで恐ろしくなることもあった。小学校で戦争について学習して、嫌というほど「戦争の恐ろしさと平和の大切さ」という言葉を聞かされたものだが、あれは本当に上っ面をなぞったものだと感じた。
 繰り返すが、ティムや大岡が書く理由は、自分が経験したことをより多くの人に知ってもらうためだと考える。そしてそれをどこまでも詳しく描写することで、その経験を理解してもらいたかったのだと思う。

 ▼書き手の動機を超えて、読み手たちが〈そのように〉受け止めた時点で、作品は〈そのように〉、その読み手たちによって命を与えられる。書かれたものは、命を与えられることを願っている。文学とはまず何よりも、見つめるものであり、描くものである。そのようにしてしか、伝わらないものがある。
 ティムが娘に話せなかったように、小学生には話せないことがある。しかし私たちは、少しずつ深い共振を受け止められる身体になっていく。それがいかに恐ろしいできごとであったとしても。そして、その共振の経験が、同じ〈結論〉に、それまではなかったある力を与える。なぜ書くか、についてもう少し。

●二つの作品の作者は、自分が経験した極限状態を「書く」ことで、自らの精神状態を整理し、世間にさらすことで、人間の本能的な心の動きと、その後の、はっきりしている自分の感情の動きを伝えようとしているのだと思います。そして、同じような状況になったとき、いかに自分の精神をコントロールして対処していくのかを考えてもらいたいのかな、と思いました。

 ▼「伝えるために(他者のために)話す」というだけでなく、ことばには「自分のために話す(書く)」という機能がある。特に、書く、とは、自分と対話し、さらに、その自分の書いた文章と対話することだ。文学は、この、自分との対話を出発点とする。読む、ということは、その対話のプロセスを追体験することでもある。たとえば、物語の体験と読者の中にある〈戦争〉が共鳴したとき、そこに一つの新しい〈現実〉(リアリティ)が生まれる。書き手の根にも、読み手の根にも、共感を求める気持ちがあるのは間違いない。そうやって共有されたことは、たんなる意味や意見より、強い命を持つ。

●…ところが「俘虜記」の「私」は少し違いました。ためらい、感嘆、同情といった極めて人間的な感情が彼の心に浮かび、結果として敵兵を殺すことはありませんでした。彼はティムと同じ状況に至っても、人間的感情の方が優ったのです。/私は正直、「私」が見いだした心情に少し安堵しました。人間が戦争という極限状態に身を投じてしまえば、情などなくなってしまうのではと思っていたためです。「私」の抱いた感情は、明らかに人間的なものであり、「殺したくない」という感情の表れでもあります。ティムの場合でも、殺してしまった後、それに対する葛藤が描かれていました。人間は、極限状態におかれても、情を捨て去ることも、残酷になりきることもないのだ、と希望というには大げさかもしれませんが、何か明るいものを見出せた気がしました。

 ▼性善説性悪説という考え方がある。いまだに殺し合いをやめない人類は、もともと〈悪〉なのだ。そう考えるか。その方向から見れば、たしかに、そう見える。しかし、一人一人の、「兵士」といった仮面を引きはがした生身の底には、瞬間的に情愛に満ちた人の心が透けて見える。それを希望と呼ぶことは許されるだろう。