国語教育いろいろ

高校、大学の現場での議論のいろいろです

教科書に書いてある訳を生徒に読ませること

(2020.10.11)
※4限で話題になったことへのコメントを転載しておきます。

●教科書に書いてある訳を生徒に読ませること

 書いてあることを音読させるのは、教室全体で共有するという意味があります。
 これは音楽の授業に似ています。
 音と目、そして、手がそこに参加することで、頭が動き出し、なんとなくわかったつもりになっていたことがくっきりしてくるのです。

 ここに教師の一工夫があると、なお、生徒たちの頭は動きます。
 古文の訳が書いてある。その全体を読ませるのではなく、
例えば、「私(教師)が読んだ部分に当たる現代語訳を読み上げて下さい」
と指示する。
 「古文と現代語訳のどこが異なるか、注意してね」
というだけで、生徒の注意力は変わります。
 「振り分け髪も肩過ぎぬ」
 「振り分け髪も肩を過ぎて伸びました」
 「何か気づきましたか?」
 「過ぎた、というのを古文では、過ぎぬ、といっています!」
 「過ぎぬ、は、過ぎ〈ない〉、という意味じゃないんや!」
 「そうですね。過ぎぬ、は『過ぎた』とノートに書いておきましょう」
 「じゃあ、過ぎない、は古文ではどういうんですか?」
 生徒の言葉の神経は活発化していきます。
 「肩を」の「を」が古文(和歌)にはないことに気づく生徒もいるでしょう。

 このように見ると、訳が書いてあるから、教えることは何もない、というのは間違いだとわかります。
 読ませたり、書かせたりすることによって、さまざまな気づきに導くことができます。
 ・古文は今の日本語の先祖。基本的に言葉の順番は同じだし、単語も重なっている。
 ・しかし、今とは異なっているところもある。
 
 こういうことは、生徒にとっては当たり前のことではないのです。
 とくに、「基本的に同じ。千年経っても髪は髪、肩は肩」といった同じ部分に注意を向けさせることも大事です。
 生徒の様子は、ずっと昔は、「古文も日本語だからなんとなくわかるよな」という感じだったのです。それに対して、そうじゃない、正確な読解が大切だ、と教えるのが国語教師の仕事だと思われていました。外国語として見なさい、と私などは教えられました。それにも意義はあるのですが、それが強調されるあまり、文法、品詞分解だけやるような授業が主流になってしまいました。

 しかし、皆さんも含めて今の生徒たちにとって、古文・漢文は、もはや、最初からなんだかわからないもの、です。今、入口として必要なのは、むしろ、日本語という一続きのことばの流れに導き入れることです。そこには中国の言葉の流れも流れ込んでいます。
 「同じだ」「わかる」ところから、「違う!」「どういう意味だろう?」「どうしてなんだろう?」という部分――問いの発見につなぐのです。


●古典作品を教材として扱う場合の現代日本語訳について

「深く読み過ぎると時間がかかるが,
簡単にいきすぎると理解が中途半端な状態で終わってしまう」

時間の問題は、すべて深く行くか、絞るか、で調整できます。
どう絞るか、どこに焦点を当てるか、は、その教室での、その時間の目標によって決まります。どこにこだわるか、教師は予めデザインしておきます。

(現代語訳の一般論)
現代語訳には4バージョン考えておくといいと思います。
1 直訳、逐語訳
2 主語、目的語、指示内容などを補った「教科書的」現代語訳、古語の訳語も標準的、辞書的なものを使う。
3 文脈に合わせた応用訳。作家が源氏を現代語訳するときなどがこれ。
4 現代の高校生に合わせた訳。高校生の言葉や地方の言葉なども使い、実感がこもるように訳す。

通常「2」をゴールとしがちですが、物足りないと思います。
「2」のバージョンの訳は、参考書やネットなど、生徒もすぐにアクセスできるところにいくらでも転がっています。
しかし、その訳を読んでもなんのことかピンとこなかったことはありませんか?
また、わかるけど、どこがおもしろいのか、いまいち、と感じたことは?
敬語なども正確さにこだわるあまり、
現代日本語ではぜったいつかわないような珍妙な訳になる場合も多くあります。
また、登場人物の性差や年齢差などもあまり考慮されていないのが、
「2」に多く見られる訳です。

「振り分け髪も肩を過ぎて伸びました」
「振り分け髪も肩を過ぎて伸びちゃった」
「少女のときから伸ばした髪も、もう肩をこしました」

正確に訳した上で、訳を自在に展開していく活動自体が、
生徒に深く解釈させることにつながります。