一夜、六夜、そして七夜を通して。
自分という一人の話者が見た夢という立場から見てみたい。
彼の心の中のある状態がこれらの夢として形作られているとすると、
そこにはある感触が共通していると思われる。
それは、
不安や迷いの沸き立ちと、それに対抗しようとする主体的な行動の意志との戦いの感触である。
女は死ぬのか、会いに来てくれるのか、
明治の自分には仁王は彫れないのか、
この船はどこに行くのか、自分は乗っていてよいのか。
女の不在、本当の芸術の不可能、目的の喪失。
これは裏返していうと、
ともに生きるべき存在への確信と願望、
不動の価値を創作することの可能性の確信と願望、
自分を含む時代が確かな方向へ進んでいくことへの願望、
が隠れていることを意味する。
それぞれの最後の納得は、
それらの願望が一部実現した感触を表している。
百年(共に生きる存在との邂逅)はもう来ていた、
運慶(本当の創作の可能性)は生きている、
行き先はわからなくても、乗っていれば、
行き先を決めることもできるーー。
しかし
これらの「悟り」は、
どれも矛盾を
かかえたままであり、
ハッピーエンドにはなっていない。
女は人間の形をしていないし、明治の木を彫ってもすぐには仁王は現れない。船に至っては、すでに海に落ちてしまって戻ることはできない。
ここには、
不可能な状態に置かれながら、
可能性を確信している者の「夢」の形象がある。
彼の夢は、迷いから始まり、
(主観的には)可能性を確信するに至るが、
客観的にはそれが不可能である自分を見つめるところで終わる。
しかし、第一夜のときに触れたように、
彼はーそして読者は、
読み終わり、夢というフレームから解放される。
現実の世界は、まさに不可能性に満ちているけれども、
夢の中で確信した何事かの感触は、
彼の中で生き続ける。
彼は運慶の技に感動し、運慶のようになりたいと思い、自分でも仁王を創りたいと思った。
そこが観衆たちとは違う。
彼は見る者から行動する者へ転じ、
その瞬間、
運慶のショータイムは画面から消える。
しかし仁王は、ガチャガチャを回してポンと出てくるように手に入るものではなかった。
そんなものじゃないんだ。
そう悟った瞬間、
彼には運慶のメッセージが聞こえたのではないか。暁の星を見たときに女のメッセージを悟ったように。
お前のようなやつがいるから、
おれは死ねないんだなあ。
お前みたいなやつがいるから、
おれはおれの技を見せるために生きてるんだ。
お前はちょっとトンチンカンで、
しかも工場でなんでも作ってしまうような時代に生まれちまったから、
不利だけどさ、
でもまあ、やってみなよ。
かんたんじゃないけどさ、
いつの日か、きっとわかるさ。
運慶が体現していた
あの迷いのなさ。
あれはきっと今でも可能なんだ。
それを教えるために
彼は生きて、夢の中に現れるんだ。
たぶん。
彼が明治の木に
彼なりの仁王を掘り当てたあかつきには、
「ほぼ」が100%の確信に至る。
それがいつになるのか、
わからないけれど、
それに賭けても、
いいんじゃないかな。
明治の観衆に埋もれるよりは。
女と会えることに賭ける。
船に乗り続けることに賭ける。
夢のあとに残る手触りは、
書き止めておくに値する何かであろうとおもわれる。