国語教育いろいろ

高校、大学の現場での議論のいろいろです

スマホとパソコンの言語的問題


「パソコンでプログラミング(創造)はできますがスマホではできません。似たような事はできても、誰かが作ったものを使っています。」

 

この指摘は、

じつは言語に関わる重要な問題です。

 


言語には、

社会を支配し、

構成する力がある。

そして、

ある時空において

有力な言語をあやつれる存在が、

その時空を支配する。

 


古くは神の言葉、をあやつれる呪者、

預言者

古代日本では漢語を理解できる階層。

植民地では宗主国の言語。

黒船によって開国させられた国では西欧列強の言語。

近代の産業技術、経済システムが支配する場所では数字や数理言語。

 


そして今、

プログラミング言語

 


このような言語の習得は、

社会を「有利に」生きていくために

必要とされ、

教育投資の対象になってきました。

 


ここにもう一つ、

生活言語という次元があります。

 


スマホがほぼ「生活」と同義に

なってしまっているいま、

国語=言語生活の課題は、

その生活空間での言葉の問題に

急速にシフトしています。

 


それが、

「現代の国語」の設定として

現象し、

みなさんの模擬授業実践として

取り上げられているわけです。

 


そして一方、

社会を構成する側

=アプリやSNS的なしくみを設計する側の

言語世界があるわけです。

 


スマホ世界と

パソコン世界

(あるいはスパコン

という区分けは、

ある「格差」の区分けともいえる。

 


スマホの中を流れる、

これまでの生活世界的言語を

さらに煮崩したような言葉。

 


外国語も

AIにおまかせの翻訳語で、

なんとなく理解していく

(するしかない)階層。

 


バーチャル世界を設計し、

そのしくみを使わないと

生きていけないようにし、

あらゆる情報、

莫大な利益を収奪していく階層と権力。

 


国語の課題は、

思考の根となる生活言語を駆使して、

自己や社会を捉え、

構想と実践につないでいける、

柔軟で鋭利で強靭な

言葉の神経を育むことです。

 


これまで

社会を支配してきた

さまざまな言語群の底で、

ほんとうに機能していたのは、

身体化された太い言葉の神経でした。

 


スマホとパソコン、

の向こう側にある

言語的課題を意識しておくのは、

実践的にも意味があると思います。